022 : 先生の恋人 「ねぇ、センセーって彼女いんの?」「何お前ら、俺のこと好きなの?参ったなァ。生徒に手は出せないんだ、俺のことは忘れてくれ」 階下からそんな声が聞こえてきて、思わず階段の途中で足が止まった。隙間からひょいと下を覗くと、銀八先生が女子生徒に囲まれているのが見えた。 バカじゃないの、んなわけないじゃん!と騒ぎながら、女の子たちは何がそんなに楽しいのかけらけらと笑っている。けれどそう言えば、俺も彼女たちと同じ年頃だった時は、箸が転げるだけでも楽しくていつも笑っていたことを思い出した。 「センセー、質問に答えてないよ」 「質問?何だっけ?」 「だからぁ、彼女!」 女の子たちは3〜4人いるみたいなのに、ムキになって聞き出そうとしている声はひとつだけだった。ということはもしかしたら、その子だけは本当に銀八先生の言う通りなのかもしれない。 「いねェよ、彼女なんて。お前らの世話で手一杯です」 「あ、ひどーい」 「あたしらそんなに迷惑かけてないじゃん」 「まァな、大変なのはうちのZ組だから。今日だってよ、神楽の酢こんぶのせいで朝から異臭騒ぎだぜ?」 まだ匂ってるような気がするんだよな、そう言ってくんくんと白衣を嗅ぐような仕草をした銀八先生に、女の子たちは更に笑い声を上げる。銀八先生に彼女がいないって知ったからか、さっきよりも聞こえてくる声は楽しげだ。 青春だなぁ。思わず笑みが零れて、とんとんと階段を下りる。1階まで下りると、まだ女の子たちと立ち話をしていた銀八先生と目が合った。 「ほらお前ら、もうすぐチャイム鳴んぞ。早く教室戻れ」 「はーい」 「じゃね、センセー」 銀八先生にひらひらと手を振って、女の子たちはスカートを翻して廊下を走っていく。すれ違う間際、ひとりの子だけが真っ赤な顔で嬉しそうに笑っているのが見えた。ああ、やっぱり銀八先生が本気で好きなんだな、とぼんやりと視線で追いかける。 「先生、聞いてた?」 声をかけられて振り向くと、銀八先生が罰が悪そうにぽりぽりと頭を掻いていた。 「はい、ばっちりと」 「あー…そう」 「先生、モテるんですね。あの子たち、真っ赤になってましたよ?」 「いや、モテるっつーか別に、」 「やっぱり女の子は恋に一生懸命で可愛いですね」 特に今の子たちのように、思春期の女の子は本当に健気で可愛い。憧れの先生に彼女がいるかいないかだけで一喜一憂して、いないと知ればにっこりと嬉しそうに微笑むことができる。あからさまにそういうことをできるのなんて、思春期の特権だ。最も、こう思うようになったのは俺が年を取った証拠なんだろうけれど。 突然、ぐいっと腕を引かれて階段の下の倉庫に連れ込まれた。バタン、と戸が閉まると真っ暗で、何も見えなくなる。 「え、ちょ、銀八?」 あまりの驚愕に、学校だということも忘れて普段の話し方になる。まだ腕を掴まれているから一緒に倉庫の中に入ったはずなのに、銀八は何も答えない。 「お前何のつもり…っ」 「嫉妬してくれねェんだな」 耳元で囁かれて、びくりと肩が跳ねる。思わず逃げ腰になったけれど、狭い倉庫内のことだ。逃げ場所なんてあるわけがない。案の定がっちりと腰を掴まれて、引き寄せられた。 「ばかっ、誰か来たらどうするんだよ!」 「彼女はいねェけど恋人はいますって紹介してやるよ」 「…まさかお前、妬いてんの?」 「……が妬いてっかと思ったのによ。なんで俺が妬かなきゃなんねーんだよコノヤロー」 こつんと肩口に頭を埋められて、銀八の天パが頬をくすぐった。 良い年をした大人が、女の子は可愛いって言った俺の言葉ひとつで不機嫌になっている。お前はいつまで思春期過ごすつもりなんだ、と突っ込みたくなったけれど、何だか可愛く思えてきたのでやめておいた。代わりにぎゅっと抱き締めてやる。 「…なんだよ、今更。人来たらどうすんですかー」 「拗ねるなよ、バカ」 「どうせ俺はバカだよ。お前が可愛いっつったあいつらにも妬くくらい、バカで嫉妬深い男で悪いかよ」 思わずくすりと笑みが漏れる。 「そんなこと言ってないだろ。…それに俺だって、あの子たちには妬かないけど、神楽ちゃんにはちょっと嫉妬してる」 「あ?」 「だってお前、少し酢こんぶくさい。これ嗅ぐたび、あの子を思い出すだろ?」 さっき女の子たちにも言っていた異臭騒ぎ。抱き締めるまで分からなかったけれど、銀八の白衣からは微かに酢こんぶの匂いがする。流石に銀八がひとりの女の子のことだけを考えるのは、俺だって気に入らない。 「…神楽の酢こんぶでも役に立つことがあるんだなァ」 そう言って銀八は嬉しそうに、今度神楽に酢こんぶ買ってやるか、と呟いた。
( 2009/04/11 )
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