遅くになっても部屋の灯りが消えないので、心配になって部屋を訪ねた。部屋の外から感じる気配は一人分のようだし、空気が張り詰めているわけでもない。特に大事なわけではなさそうだと思いながら耳をすますが、物音一つ聞こえなかった。
 もしかして何かあったのだろうかと、不安ばかりが募る。それを解消するためにも、申し訳ないと思いつつ、少しだけ戸を開いた。


「―――…っ!?」


 玄徳の姿はすぐに視界に飛び込んできた。開いたままの書簡の上に、突っ伏すようにしている。そのせいでこの場所からでは状況が把握出来ない。
 恐る恐る近付くとようやく寝息が聞こえてきた。それにほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、覗き込む先には疲れたような顔があって、は顔を顰めた。
 書簡が開きっぱなしであることから、仕事中であったことが窺える。こうして仕事中に眠ってしまうことなど常日頃の玄徳からは考えられない。先程、異常に驚いてしまった理由はそこにある。最近の彼は働き過ぎのように見受けられるから、疲労が祟っているのだろう。


「玄徳様」


 起こすのは忍びないが、このような無理な体勢で眠るのは明日に堪える。そっと玄徳の肩を揺すって名前を呼ぶが、目を覚ます気配はない。


「玄徳様」


 もう一度、先程より声を大きくして名を呼んだ。そうしてようやくぴくりと瞼が動いて、玄徳が目を覚ます。
 は一歩退いて、体を起こす玄徳を見守った。その動きも、眠っていたとは言えいつもよりもやや鈍い。疲労だけではなく、体の調子も悪いのかもしれない。


「どうかなさいましたか?どこかお身体の調子でも…?」
「…いや、眠っていただけだ。心配かけてすまないな」


 声を潜めて問い掛けると、玄徳は苦笑いを浮かべて緩く頭を振った。その顔が僅かに歪むのを、は見逃さない。


「いえ。…ですが相当お疲れのご様子。今日はもう休まれた方がよろしいのでは?」


 このまま仕事を続けていたとしても、失礼だが捗らないだろう。玄徳もそう思ったか、又はが思うよりも症状が酷いのか。もしかしたら首を振られるかもしれないと思ったの推測は、良い意味で裏切られた。


「ああ、そうだな…。その方が良さそうだ」
「では、白湯でもお持ちしましょう。お体が冷えているでしょうから」


 実際、先程触れた玄徳の体は衣服の上からでも分かるほど冷え切っていた。このまま寝所に向かっても、あれでは疲れも癒されない。
 玄徳が反応を返すより早く、一礼して部屋を出る。部屋から遠く離れてから、深く息を吐き出した。
 いつでも傍にいることが出来れば、あのような疲れた顔などさせないのに。それが許されない斥候という仕事についたことが、今はただ悔やまれる。普段はこうは思わない。斥候はやりがいのある、重要な仕事だ。玄徳のためを思えばどんなに危険な場所にでも潜り込むし、そしてやり遂げられるだけの力があると自負している。だがそれでも、思わずにはいられない。己が文官であったのなら、玄徳の近くで支えることが出来るのに、と。
 玄徳のことは尊敬している。けれどそんな風に思う理由が、それだけではないこともとっくの昔に自覚した。告げることも悟られることも叶わないので普段は心の奥底に押し込めている想いだ。


「せめて俺が、女だったら…」


 契りを結ぶことも、可能だったのだろうか。
 無意識に漏れた言葉が思いのほか大きく響いて、ははっと我に返った。今は悔いている場合でも落ち込んでいる場合でもない。
 は白湯を取りに行く前に、玄徳の部屋へと向かった。勝手に入るのは憚られるが、寝所を整えておくのも誰かの仕事の内である。女官がしているはずだったが、それでも体調が悪そうな今日は眠る前にもう一度しておこうと思ったのだ。
 寝所を整え終えて白湯を持って行った頃、眠っているかもしれないと思った玄徳は、起きて机に肘をつき、頭を抱えていた。頭痛がするのかもしれない。薬も一緒に持って来れば良かった。


   失礼いたします」


 敢えて声をかけると、玄徳ははっとしたように顔を上げた。と目が合う前に表情を引き締める姿に少しだけ胸が痛む。もう少し隙を見せてくれても良いのにとは、思うだけで絶対に言えないけれど。


「どうぞ」
「ああ、ありがとう」


 頭に響かないように小さく告げて白湯を机の上に置くと、玄徳はまず最初にそれを両手で包み込むようにした。それから一口口に含む。ちょっとだけ顔色が良くなったことにが安堵していると、玄徳は自嘲気味に微笑んだ。
 玄徳のことだから、自らを責めているのだろう。他人に優しい彼は、己に厳しい。
 もう少し傍にいたいと思わないこともなかったが、玄徳の体が暖まってくれればそれ以上に出来ることはない。白湯を乗せてきた盆を脇に抱えて、もう一度一礼する。


「寝所を整えておきましたので、そちらでゆっくりお休みください。では、私はこれで…」
、」


 踵を返して去ろうとしたところで、己の名を呼んだ声に体が凍り付いた。けれど掴まれた手から広がる熱が、それを瞬時に溶かしていく。振り向けば、心許なさそうな表情を浮かべて、玄徳がの手を掴んでいた。
 体調が優れない時は、いつも以上に人肌が恋しくなる。玄徳もそうなのだろう。掴まれた手が一向に離されないところを見るときっと無意識に、玄徳はが傍にいることを求めた。
 緩む頬を引き締めることも出来ずに、再度玄徳と向き直る。玄徳が行動でそれを示すのなら、言葉で示すのはの役目だ。


「…眠るまで、お傍にいさせて頂いても?」
「……頼む」


 許されたことに笑みを深めて、玄徳の部屋まで付き添った。体調が悪い時に自分がしてほしいことは何だろうと考えて、寝所に横になった玄徳の手のひらを両手で包み込む。一時は暖まった手のひらも、移動の最中に冷えてしまったようだ。暖まるのを待つより人肌で暖めた方が早いからと玄徳を説き伏せて、ぎゅっと握り締める。


「…あまり、ご無理をなさらないでくださいね」


 じんわりと暖まってくる手のひらを感じながら、ぽつりと頼み込む。寝所に横になって安心したからか、玄徳の顔には先程よりも疲労が強く見て取れた。このままでは倒れてしまうのではないかと思うと、気が気でない。そう思っての言葉だったのに、玄徳はその言葉の意味を違うように取ったようだった。


「そうだな…。にも迷惑はかけられないしな」
「迷惑なんかじゃありません。…ただ、心配なんです」


 先と同じく自嘲気味を浮かべる玄徳に、潜めた声で、けれど強く否定する。俯いて、噛み締めるように呟いた後の言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
 その時、の想いが通じたのか、包み込んだ手のひらが握り返してくれた。はっとして顔を上げると、穏やかに微笑む玄徳と目が合う。堪らなくなりながら、は更に玄徳の手のひらを握り締めた。
 いつか、心の奥底に押し込めたこの想いを伝えられる日が来るのだろうか。…否、来なくても良い。ただ玄徳の傍に在ることさえ許してもらえれば、それだけで良いのだ。
 そう思いながらも、静かに眠りについた玄徳の傍をいつまで経っても離れられなかった。

秘かに密やかに募り積もる、

(貴方への、愛)





( とあるお方に捧げた話の主人公ver. )
( 2011/05/15 )