「…ここは花の部屋ではありませんよ」


 気配を消して近付いたはずなのに、見下ろすの目は確かに孟徳を捉えていた。花の前ではいつも浮かべられている笑みが今はなく、静かな声にも感情はない。ただ交わる視線だけが、とても強い。
 吸い込まれるように近付いて、の頭の脇に両手をつく。唇が触れ合いそうなほどの距離しかなくても、視線は少しも逸らされず、ただ真正面からは孟徳を見つめてくる。
 普段とはまるで違う雰囲気に、喉が鳴る。その音に、不快そうに顰められた眉。敢えてそこに唇を落として笑えば、今度こそ完全に端整な顔が歪んだ。


「ここは花の部屋ではないと、申し上げましたが。あなたは耳も目も悪いんですか」
「君を夜這いに来たんだ。間違ってないだろう?」


 そもそもにこの部屋を割り当てたのは孟徳なのだから、間違うわけがない。眠るのがだと知りながら――実際は眠っていなかったのだが――枕元を覗き込み、距離を縮めた。初めから目的は、目の前の彼でしかない。
 そう告げればは目を見張り、そこで初めて視線を逸らした。


「…そこまで節操がないとは思いませんでした」
「そういうわけじゃないんだけどな」
「花をかわいい、好きだと言いながら俺を夜這いに来るなんて、そうとしか言えないでしょう」


 彼は、本当に孟徳が花を好きだと思っているのだろうか。確かにの言うとおり、花にそういう言葉を言ってきたけれど、花も含めて誰も本気と受け取っている者はいないというのに。
 不思議に思いながら孟徳は、のずば抜けて整った横顔をじっと見つめる。整い過ぎていると言っても過言ではない顔立ちはまるで人形のようで、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。中でも切れ長の瞳と丁寧な口調は、冷たさそうな印象を周囲に抱かせた。けれどその印象がすぐに崩れ去ったのは、彼の隣に花の存在があったからだ。
 確かに花はかわいいが、に比べれば華やかさが欠ける。けれど花の場合は身から滲み出る人好きのする雰囲気が、周りの者を惹き付けた。そんな花が、を慕っていること。そしてそれ以上に、の花に対する態度が、周囲が抱いた印象を覆させたのだ。
 花に対して、は常に優しかった。目尻を下げ、くだけた口調は柔らかく、口元には笑みを浮かべて。誰が見ても分かるほど花を大切にしているのに、そんな彼を冷たい人間だなどと、誰が思えるだろう。
 孟徳がに興味を持った理由もそこにある。というよりは、花に対する表情を、態度を、自分に向けさせたいと思ったのだ。あれほど純粋な好意など、向けられたことがなかったから   
 けれどこれは逆効果だったかもしれない。少しでも興味を持ってもらいたくて夜這いに来ては見たものの、の態度は頑としてつれないままだ。そもそも興味を持ってほしいからと言って相手に夜這いをかけること自体が間違っているのだということは、孟徳は考えもしなかった。
 孟徳の   というよりは孟徳の丞相という立場を目当てとする女相手ならばこれで良いのにと、内心溜め息が漏れる。そうではない相手の口説き方など知らない。今までそんな相手はいなかったから、どうすればいいかも分からない。
 未だの上にのし掛かったまま、思案に思案を重ねる孟徳に痺れを切らしたのか、だんまりを決め込んでいたは短く息を吐いた後、とうとう口を開いた。


「とにかく、部屋にお戻りください。俺はあなたに興味はありません」


 その言葉を放つ、の目を見た瞬間。頭の中が真っ白になって、胸が、震えた。あれだけ何の感情も宿していなかった瞳がゆらゆらと揺れ、声も微かに震えている、その理由。それが何なのか、孟徳は直感する。
      は嘘を吐いているのだ。一体何が嘘なのか。そんなもの、考えるまでもない。
 きっと今、己の頬はみっともないくらいに緩んでいるのだろう。嘘だと分かって喜びが沸き起こるなどかつてなかったが、今正に胸を満たしているのは歓喜だ。
 片手で体を支えて、空いた手での頬を撫でる。やんわりと、包み込むように。触れた感触は明らかに女性とは違う。それでも込み上げる愛しさは、今まで抱いてきた女性に対するもののような偽物とは比べ物にもならなかった。


「…俺は君にとても興味があるよ。本当に好きなのは花ちゃんじゃなくて君だから」


 本当は、告げるつもりはなかった。相手の気持ちが分からないまま勝負に出るような無謀さは持ち合わせていなかったし、突然伝えたとしてもそれを受け入れられるようなではないと分かっていたからだ。
 けれど。少しでもの興味が自分に向いていると知った今、勝負に出ないほど愚かではない。


「な…」


 ぱくぱくと二の句が告げずにいるに口付けを落とすのは至極簡単だったが、そうしないことで孟徳は真剣であることを伝えようとした。の返答を待つと、態度で示すのだ。そして聡く本来は冷静ながこんなにも動揺しているということは、それは伝わったと思っても良いのだろう。


「俺なんか、どうして…」
「君の花ちゃんへの態度には、嘘がひとつもなかったから」
「え…」


 例えば孟徳は、口先で花に好きだとか可愛いとか言ってきたけれど。の場合は口には一切出さず、接する態度と視線で、その感情を示していた。口先だけでなら何とでも言えるが、慈しむような視線は作れるようなものではない。心から花を大切に思っているからこそのものだ。
 だから、花に対するように、自分にもしてもらいたいと思った。周りには愛想を振り撒かず、たったひとりだけ大切にする彼ならば、信じられるかもしれないと        一縷の希望を、見出だしたのだ。


「…だけど俺は今、貴方に嘘を」
「興味がないと言ったことだろう?」
「っ…」


 息を呑んで、は大きく目を見開く。それは言葉よりも雄弁に、孟徳の言葉のとおりであることを語っていた。
 きっとは、孟徳がを選んだ理由を聞いて、嘘を吐いたことに罪悪感を抱いたのだろう。だから今、それを打ち明けようとした。もしかしたら、孟徳に対して嘘を吐いた自分は好きになってもらう資格などないとでも思ったのかもしれない。
 相手の嘘が分かるのだと話したのは花にだった。には言っていないし、花からも聞いてはいないだろう。彼女は他人の打ち明け話を、本人の承諾なく誰かに話してしまうような人間ではない。
 孟徳が他人の嘘が分かると知らなければ、嘘を吐いたことを隠し通そうとすることもできたのに、それをしなかったはやはり誠実な男だった。己の目に狂いはなかったと、孟徳は笑みを浮かべる。


「興味がないと言ったことが嘘ならば、君は俺に興味があるということで良いんだよね?」


 まるで幼子を諭すかのように優しく問い掛けると、はこくりと首を縦に振った。


「…でも、俺にはそれがあなたのような感情から抱いている興味なのか分からないんです」


 その言葉に嘘はなかったけれど、孟徳からすれば、今のは孟徳に恋愛感情は抱いていないように見える。けれどだからこそ、言葉は悪いが付け入る隙がある。


「分からないなら、今はまだいいよ。…でも、好きになってくれると嬉しいな」


 ちゅ、と口付けたのは、唇ではなく額。それに驚いた顔をした後、はくすりと微笑んだ。花に向けるものよりもまだ少しぎこちない、けれども今までは向けられたことのないその笑顔に、目を奪われる。


「俺、孟徳さんのこと誤解してたみたいです」


 あなたから孟徳さんへ呼び名が変わり、話す口調から堅苦しさがなくなる。それはが自分の懐の中へ孟徳を抱え込んだ証のように思えて、一瞬、目だけでなく言葉も思考も奪われた。けれどその言葉の意味を知りたくて、何とか一言だけ言葉を発する。


「誤解?」
「孟徳さんは、自分が欲しいものは力ずくでも手に入れるような人だと思っていました」


 絶句する。そんな風に思われていたのかと衝撃を受けたからではない。そうしていたかもしれないと、自分でも思うからだ。
 例えばが、花のように誰にでも分け隔てなく接するような性格の持ち主だったなら。孟徳だけを見るように、閉じ込めてでも自分のものにしていただろう。そういう狂気が己の内には潜んでいることを、孟徳はよく理解している。


「…誤解じゃないよ、それは」


 だから否定しなかった。違うと言うことも出来たけれど、の嘘のない愛情を望む自分がそうするのは間違っている。


「じゃあ、どうしてそうしないんですか?こんな体勢だし、俺を抱くのなんて、孟徳さんからすればすごく簡単なことでしょう?」
「だけどそうしたら、君が花ちゃんに対するように俺に接してくれる日は永遠にやってこない」


 間を開けずに答えると、は心底驚いたように目を見開いた。固まるに、孟徳は言葉を続ける。


「君を見ていると、花ちゃんのことがとても好きで、大切にしていることがよく分かる。俺はそれがとても好きなんだ」
「孟徳さん、」
「そんな風に、愛してほしいと思う」


 最後の言葉は、懇願するような響きになった。はらしくないと笑うだろうか。困るだろうか。今度こそ愛想を尽かされるのを覚悟で告げたのに、けれども返ってきたのは孟徳が想像もしない反応だった。
 真っ赤になった顔が逸らされると同時に、胸板を押し退けられる。細いとは言っても男の力で押されれば、体を起こすしかない。


くん?」
「や、あの…すみません、ちょっと、今はこっち見ないでください…!」


 そう言って両腕で覆ってしまった顔は、やっぱり耳まで真っ赤に染まっていた。
 孟徳自身は知る由もないことだが、は想いを告げられること自体に免疫がない。それは孟徳たちが抱いたような印象のせいでもあったし、元の世界でも花が常に傍にいたことで、花をの彼女だと思っている者が多いせいでもあった。同年代の女子から告白されても内心ではうろたえるのに、大の男に愛してほしいと切願されてしまえば、頭の中はすっかり混乱してしまっていた。そして向けられた想いを心地良いと思ってしまったことが、を混乱させている一番の要因だった。
 そんなの様子を孟徳はしげしげと見つめた。孟徳とて鈍くはない。その反応が己にとって良いものなのか悪いものなのかは見れば分かる。明らかに前者な反応に孟徳は唇の端を吊り上げて、さてどうしたものかと今後の身の振り方を考えた。

愛し恋し

( 2011/05/29 )