白く浮かび上がる息。もう、何周走っただろう。途中までは数えていたのに、何も考えたくなくて全てを拒絶した瞬間、数値もどこかに飛んで行ってしまった。けれど多分、30周近くは走っているように思う。 数える必要なんて、本当はなかったから構わない。別に真田に走れと言われて走ってるわけじゃないのだし。ただ、忘れたいことを忘れるために、無我夢中でがむしゃらに、走っているだけだ。それが俺の、昔からのストレス発散の方法だったから。 自分でもバカじゃないかと思う。俺が練習に参加せずに走ると言い出した時、チームメイトたちは酷く怪訝そうな顔をした。それでも走ることがトレーニングになることに変わりはなかったから、特に反対もなく、自由に走らせてもらえている。 走ることは、好きなのだ。人によっては走っていると色々と考えてしまうという奴もいるけれど、俺は違う。頭の中が真っ白になって、何も考えずに済む。走り終わった後の、あの爽快感が好きだ。疲労は溜まるけれど、それ以上に清々しい。 けれど今日は一向に、それが訪れない。もやもやとした気分が気持ち悪くて、吐き気すらしそうだ。どうして。今までこんなこと、なかったのに。 色々理由を考えてみたけれど、どんな事情を思い浮かべたところで、原因なんて一つしかない。何せ今走っているのは、それを忘れるためだったのだから。 集中力が途切れると、さっきのことがまるで映画のようなワンシーンとなって頭の中を駆け巡った。できれば見たくなかったもの。―――けれどいつしかこうなると、覚悟していたこと。 「先輩」 俺を呼ぶその声は、けして大きくはなかった。けれど周りの音をすべて遮断していた俺の耳にもその声だけが届き、ぎくりと体は強張り、足が止まった。 吐く息が荒い。突然立ち止まったから、走ることに対応していた呼吸がそれに追い付かないのだ。呼吸の荒さに呼応するかのように、心臓も音を立て始める。落ち着け、俺。でないときっと、変なことを口走る。 ゆっくりと息を吸い込んで、同じ速度で吐き出す。そんな風に息を整えている間に、彼は俺の目の前に立った。…あわよくば逃げようとしていたことに、気付かれたんだろうか。 「もう、いいでしょ。何でそんなに走らなきゃなんないんすか」 「…気晴らし。いいだろ、別に。お前には関係ない」 ふい、と顔を逸らすと、赤也がむっと眉を顰めたのが分かった。こいつはいつだってそうだ。自分の気に入らないことがあると、すぐに表にそれを出す。 「ひっでえ言い方。先輩、俺のこと嫌いなわけ?」 その言葉に驚いて思わず赤也の方を見てしまってから、しまった、と後悔した。赤也の狙いは俺に自分の方を向かせることだったのだ。そのために思いもしないことを口にした。その証拠に、赤也の口元には笑みが浮かんでいる。 こいつは多分、気付いているんだろう。俺が走らずにはいられない理由。…俺が、赤也の目を見られない理由、に。 気付いているのに、赤也はその質問の答えを俺に言わせようとする。意地が悪い男だ、本当に。それでも俺はその誤解を、実際はしていないと知っていても解かずにはいられない。 「…嫌いじゃないよ」 呟いた後、少しだけ泣きたくなった。そうだ、俺は赤也を嫌いになれない。それどころか、浅ましい恋愛感情さえ抱いてしまっている。 赤也がそのことに気付いてしまったのは俺の落ち度だ。こんな想いは誰にも気付かれてはならなかったのに、あの時、バカみたいに動揺してしまった。あれは好きだと言っているようなものだったと、振り返ってみるとかなり凹む。俺は馬鹿で、阿呆だ。 「先輩、今日、俺が告白されてるの見てましたよね」 「っ…!」 「あの女の子、可愛かったと思いません?」 自己嫌悪に浸っている俺の傷口に、赤也は更に塩を塗り込んだ。それどころか赤也の言うとおり、本当に可愛かったと思うから、尚更じわじわと傷口が広がっていく。赤也に告白していた女の子は、学年の違う俺だって知っている、2年で一番可愛いといわれている子だった。 今の俺は、一体どんな顔をしているんだろう。分からないし、分かりたくもない。どうせ酷く醜い顔をしているに違いないのだから。なのに赤也はそんな俺を見て、いつもからは想像もつかないほどやさしく微笑んだ。 「何で先輩がそんな顔するんすか」 ………どうしてこいつはこんな時に、こんなにも優しい声で、俺の頬に手を伸ばしたりするんだろう。俺が赤也のことを好きだと知った上でのいつもの気まぐれなら、止めてほしい。俺はそれに耐えられない。それなのにどうして俺は、その手を振り払えないんだろう。 泣きたいのを我慢するのも、いい加減限界だった。溢れる涙が頬を伝って、音も立てずに地面に吸い込まれていく。俺は涙を拭うこともできずに、ただぼんやりと赤也を見ていた。 「…俺、知ってるんすよ。先輩が、俺を好きなこと。俺がそれを知ってるって先輩が気付いてることも、知ってる」 赤也はバカだけど、そういう、人の気持ちには鋭い。今の俺には違うと嘘で取り繕うだけの余裕もなかったし、その先に続く言葉も気になって、こくりと頷いた。 そんな俺に、満足そうに赤也は笑った。その笑顔を見てふと思ったのは、もしかしたら俺はすべて赤也の思うとおりに動いているのかもしれないということだったけれど、そんなのは今更で変えようのないことだったから、何も言えなかった。 「でも、先輩は俺の気持ちを知らない」 「…お前があの子に告白されて、嬉しそうだったのは知ってるよ」 赤也を正面から見ることができなくて、ふい、と顔を背けた。それでも赤也の手を払いのけられない自分に嫌気が差す。 瞼を閉じればくっきりと脳裏に浮かぶ、赤也があの子に向けた嬉しそうな笑顔。それを見た瞬間、体がまるで自分のものでなくなったかのように動けなくなった。肩に下げていたバッグが滑り落ちて、体中の熱が引いていくのさえ分かって。…あの気持ちの悪い感触は、きっと暫く忘れられない。 赤也はモテる。告白されているのを見かけるのなんてしょっちゅうだったから、さっきもただ単に告白されていただけなら、さすがの俺でもあんな反応はしなかっただろう。けれど赤也が今までの相手に見せたことのない笑顔で笑ったのは事実で、だから俺は、赤也もあの子が好きなんだろうと思ったのだ。 …そう言えば、あの告白はどうなったのだろう。耐え切れなくなってその場から逃げ出したせいで、俺は赤也があの子になんて答えたのか知らない。 「そりゃ、嬉しかったっすよ。学年一可愛い子に告られたんすもん」 …ああ、なら、やっぱり赤也は、あの子の告白をオーケーしたんだろう。あの子と赤也なら、お似合いだ。……俺なんか、足元にも及ばない。 「俺、言いましたよね。何でそんなに走らなきゃなんないんすかって」 そういえば確かに、一番最初に声をかけられた時、赤也はそんなことを言っていたような気がする。それは、バカみたいに走る俺に呆れての言葉だと思っていた。 突然飛んだ話の内容に、思わず背けた顔を正面に戻してしまう。 「柳先輩に、先輩はイヤなことや忘れたいことがあると走る癖があるって聞きました。…だから、そう言ったんです」 …頭の中がぐちゃぐちゃで、赤也が何を言いたいのか分からない。俺が走る理由はその通りだけれど、それで何故、走る必要がないと赤也が判断できるのだろう。それを決められるのは、俺だけのはずなのに。 「先輩が走ってた理由は、俺でしょ?」 「………」 本当は、否定しようかとも思った。だけど赤也はまるで試合の時のように真剣で、そんな赤也を前に、誤魔化したり嘘を吐くことはできなかった。ただ言葉にするのは抵抗があって、首だけを小さく上下に動かした。 認めた俺に赤也はほうっと安堵の息を吐いた。 「なら、やっぱり走る必要なんてないっす。俺が好きなのは、先輩っすから」 「……え…」 …赤也は今、誰を好きだと言った?考えて、思い出して、また更に考え直す。だって有り得ない。俺の名前が聞こえた気がするのは、きっと間違いだ。 そう思うのに、赤也がそれを許さなかった。 「俺はアンタが好きなんです」 真正面から見つめられて、アンタが好きだと言われたら、間違いだなんてもう思えない。きっと赤也は俺がそう思うのを見越して、2度言い方を変えて言ったんだろう。…言ってくれた、のだ。 ふ、と強張っていた頬が緩んだ。そのせいでせっかく止まっていた涙が、またぼろっと溢れる。それは頬に重ねられたままだった赤也の手を濡らすのに、赤也は手をよけようとしないどころか、親指でどこか不器用にその涙を拭ってくれた。 「……赤也…」 「…ねえ先輩。俺のこと、好き?」 …その声が、自信家な赤也らしくなく、震えているように聞こえたせいかもしれない。俺は躊躇うことも戸惑うこともなく、素直に頷いていた。 「…すきだよ。赤也がす、」 いつの間にか、赤也の顔が目の前にあった。そして続くはずの言葉が、寒さのせいで少しだけガサついた唇に呑み込まれる。 俺が赤也を好きなように、赤也も俺を好きでいてくれている。それを感じるには十分すぎるほどの、優しいキスだった。 《 Join 》 「好きです、付き合ってください!」 そう言ってきた奴の、名前と顔は知っていた。確か、この間の人気投票でナンバー1だった奴だ。クラスの奴らが付き合いたいだのデートしたいだの言っていたのを思い出す。けど俺は、付き合いたいと思ったことは一度も無い。それでも告白されるのは嬉しかったし、学年で一番の女が俺を好きだということには優越さえ覚えた。だから、俺の顔は笑っていたと思う。 物音がしたのはそんな時だった。誰だよこんな時に、と正直そんな風にも思ったけれど、その思いは俺より彼女の方が強かっただろう。何せ、決死の覚悟で告白して、これからその返事を貰おうって時だったのだから。 振り向いた先にいたのは先輩だった。先輩は部活の先輩で、俺が今、一番付き合いたいと思っている人。まぁつまり、目の前にいる女なんかより、ずっとずっと好きな人だ。 さっきの物音は、先輩がバッグを落とした音らしかった。話を聞いていたんだろうか。先輩の顔は真っ青というより真っ白で、こっちを見て固まっていた。 その様子を見てピンときた。先輩もきっと、俺のことが好きなんだ。そう思った理由はない。敢えて言うなら勘だった。女の勘ならぬ、男の勘。先輩が好きなのが目の前の女だとは全然思わなかった。この2人の間に接点がないことは知っているし、先輩は誰かに一目惚れするようなタイプじゃない。 先輩が俺のことを好き。そう考えると勝手に頬が緩んだ。今目の前にいんのが先輩だったらなぁ、と思う。もしそうだったらどんなに嬉しいだろう。柄じゃねえけど、優しく慰めてやることだってできるような気がする。あの人が俺を好きでいてくれるんなら、何だってできる。 それでも、逃げ出した先輩の後は追わなかった。先輩とのことは、後で幾らでもフォローできる。ならそれより先にするべきなのは、今のこの事態に始末をつけること。 「悪ィけど俺、あんたに興味ねーから」 はっきりそう告げた時、女は酷く驚いた顔をした。まるでフラれるとは思ってもいなかったかのような表情にうんざりする。やっぱり顔だけのこんな女より、先輩の方が何十倍もイイ。
( 2008/02/09 )
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