「おっせえよ」 不機嫌なのを隠しもしない表情と声に、ぴくりとこめかみが痙攣した。遅いなんて言われる筋合いなんてない。一緒に帰る約束はしていないし、そもそも部活が終わった時間もいつもどおりだった。 だからその言葉も視線も無視して、目の前を通り過ぎようとした。…のに、腕を掴まれて阻まれる。 「…なに」 「あ?なに、じゃねえよ。てめえ、何無視しようとしてんだ。こっちは寒い中待ってたっつーのによ」 「そう、おつかれさま。じゃあ俺は帰るから」 俺の腕を掴んだ手を振り払おうとしたのに、指に込められた力はちっとも緩まない。離して、そう言おうとして視線を向けると、俺の言葉に怒っていると思っていた青峰は、思いのほか真剣な顔をしていた。 「ばかか、お前。送ってやるっつってんだ」 「…そんなこと言われてない」 「言う前にお前が帰ろうとしたんだろうが」 声を荒げずに淡々と言葉を返してくる青峰に、怒っているような様子は微塵もなかった。言葉こそ押し付けがましいものだけど、実際はただ単純に、俺のことを心配してくれているんだって分かる。 どうやって断ろうと思っていると、掴まれた腕を引っ張られた。青峰が歩き出したのは、俺の家がある方向で。青峰が住んでいる寮とは、全然逆の方向。 「送ってくれなくてもいいよ、」 「……」 「俺ひとりでも大丈夫だからっ」 「……」 さっき無視したお返しだろうか。俺を見ないで、無言で歩き続ける青峰にだんだん不安になってくる。 送ってくれなくていい。大丈夫だって、言ってるんだから。なのにこんな風にされると、 「甘えたくなるからやめてよ…っ!」 足を踏ん張って声を張ると、ぴたりと青峰が立ち止まった。 暗くなった道を、等間隔に並んだ街頭と車のヘッドライトだけが照らす。だけど俺と青峰が今いるところは車通りの少ない道で、街頭と街頭のちょうど真ん中に当たるせいで結構暗い。脇には狭い路地があって、そこに入ると誰の目にも触れなくなる。…前に俺が襲われたのは、ちょうどこの場所だった。 溢れた涙が、ぽたりぽたりとコンクリートに吸い込まれていく。あの時のことを思い出すと、勝手に体が震えて止まらなくなる。かつあげならまだ良かった。こんな風にみっともなく泣くはめにはならなかっただろうから。だけどあの時俺を路地に連れ込んだのは、俺みたいな男をターゲットにした痴漢だった。 「…何で分かんねーんだよ」 俯いた頭に、溜め息が降ってくる。咄嗟に顔を上げると、青峰の顔を窺うより先に抱き締められた。 「甘えろっつってんだから、お前はおとなしく甘えてればいいんだよ」 その言葉に驚いて涙が止まる。だけど名残で、ひく、と喉が鳴った。 「あ、甘えろなんて言われてない…」 「だから、言う前にお前が帰ろうとしたんだろ!」 混乱した頭ではうまく物事が整理できなくて、意識せずにさっきと同じやり取りになってしまう。だけど違うのは、青峰の腕の中にいるということ。 あの日、俺が襲われた時のことが脳裏に甦る。突然伸びてきた手に口元を覆われ、暗闇に連れ込まれて。体中を弄ってくる手が気持ち悪くて抵抗しようとしても、全然敵わない上に暴れるなと殴られた。だけど痛みよりも恐怖が勝って、助けを求めて必死に伸ばした手を取ってくれたのが、青峰だった。 強い力で俺の腕を引いて、俺を痴漢の手から解放してくれた。邪魔が入って逃げた痴漢を追い駆けようとした青峰に、必死に縋り付いていたのは俺の方だったのに。 今は青峰が、俺を抱き締めてくれている。 「…っくそ…!分かれよ、心配なんだよ!」 それだけはわかってたと言えない雰囲気に黙り込んでいると、唐突に温もりが離れていった。だけど変わりに青峰の顔が近付いてくる。 「つーかお前、甘えたいくせに何で強がるわけ?」 「……それは…」 青峰の瞳には、有無を言わせない強さがある。このまま正面から見られていると余計なことを言ってしまいそうで俯こうとすると、顎を掴まれて無理やり視線を合わされた。言え、と睨まれたら、俺には逃げられない。 「…桃井さんに悪いから…」 「さつき?何でさつきが出てくんだ」 「何で、って……付き合ってるんじゃ」 「はあ?んなわけねーだろ。あいつが好きなのはテツだ、テツ!」 テツって誰だろう、と一瞬思ったけど、付き合っていないという事実にほっとして、また涙が出た。青峰はそれにぎょっとしたようだったけど、すぐに溜め息をつきながらジャージの裾でごしごし擦られる。…涙を拭ってくれてるのかな、ちょっと痛い。 そんなことを思っていると、唇に何かが触れた。かさついたそれがさっきまで目の前にあった青峰の唇だと気付いて声を上げようとした瞬間、ぬるりと舌を差し込まれて、俺が軽くパニックに陥る。その間に思う存分口内を舐め回した青峰は、離れた後に真剣な声で言った。 「…言っとくけど俺、遊びでこんなことしねえからな」 「え…」 「俺と付き合うだろ?」 その、青峰らしい言い方に、ふ、と笑みが零れる。助けられたときから青峰が好きな俺には断る理由がないし、桃井さんと付き合っていないって分かった今は、強がる理由もなくて。素直に頷くと、よし、と青峰は満足そうに笑った。 リニューアル 「…でも俺、はじめてだったんだけど」「あんくらいやった方が忘れねえだろ。ちゃんと覚えとけ。あそこは俺とお前がはじめてキスした場所だってな」 「え…(もしかして、俺があの場所のこと忘れられないでいたから?)」 「ま、俺がしたかっただけだけどな」 「…ありがとう…」 「だから、俺がしたかっただけだっつーの」
( 2012/02/04 )
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