朝のホームルームが終わって授業の用意をしていると目の前に誰かが立った気配がして、ふと顔を上げた。クラスメイトだろうと思ったのにそこに立っていたのは折原だった。同じ中学出身とはいえ特別仲が良かったわけでもなく、すれ違えば挨拶する程度の、言わば友達ですらない顔見知り。それなのに折原は今、確かに俺を見下ろしていた。整った顔に、完璧すぎる笑みを貼り付けて。
 だけど俺は驚かない。もしかしたら来るかもしれないと思っていた。折原が、静雄と仲が悪いと知ってから。中学の頃からろくな噂の立たない折原のことだ。気に食わない相手に俺みたいな存在が出来れば、そこから崩しにかかるだろうと思ったんだけど…どうやら、正解だったようだ。


「やあ、
「…おはよう、折原。何か用?」


 机の中から次の授業に必要なものを全部取り出してから、お返しというわけじゃないけどにこりと笑ってそう問い掛ける。すると折原は少しだけ楽しげに頬を緩めた。今まで浮かべていた”偽物”の笑顔の中に、初めて”本物”が混ざる。だからと言って俺まで本当に笑うつもりはなく、警戒も緩めない。


「随分冷たいね。挨拶くらいしたっていいだろう?」
「まあね。でも単なる顔見知りに挨拶するために、わざわざ他のクラスにまでやってこないと思うけど」
「優しいくんにしては厭味な言い方をするなあ。俺のこと嫌い?ちなみに俺は君のこと大好きだよ!」


 両腕を広げて、大袈裟に言ってみせる折原。昔からこうだ。人間が好きだと豪語して、そのくせ誰にも心を許さない。とても矛盾していると思うのは俺だけだろうか。たまに、折原は本当は人間が嫌いなんじゃないかと思う時がある。
 小さく、溜め息が零れた。


「俺と仲良くなって静雄をからかおうとしているなら無駄だよ。そういう理由で俺に近付くなら、俺は折原を嫌いになるかもしれない」


 声のトーンを落としてそう言うと、折原は偽物の笑みも本物の笑みも完全に消した。何を考えているか分からない目が、俺をじっと見据える。


「……残念だな」
「?」
「3年以上一緒のところにいて、の面白さに今頃気付くなんて……しかもきっかけがシズちゃんかあ……それは腹立つけど、でも、俺の想像以上だったな…」
「別に俺は面白くなんか…」


 俺はただ、静雄が不愉快な思いをするのが嫌なだけだ。それを面白いと言われても、嬉しくとも何ともない。
 それに、折原が俺に話し掛けてきた理由はやっぱり静雄にあった。想像以上というのはそういうことだろう。そのことに思いきり眉根を顰めると、折原はまるで嬉しくて堪らないとでもいうように満面に笑みを浮かべた。それも偽物なんかじゃない、本物の笑顔。無邪気とも取れるその笑顔に、周りの女子たちが黄色い声を上げる。


「―――これだから、人間は好きなんだ」


 今の笑顔でそう言われると、本当に折原は人間が好きなんだなって思えた。これ、がどういうことかは、俺には分からなかったけれど。
 それから折原は、酷く上機嫌にひらひらと手を振って教室を出て行った。残された俺は女子に質問攻めにされながらも、もう見えなくなった姿を追ってぼんやりと廊下を眺めることしか出来なかった。
 結局何もしないで帰って行った、折原の意図がまったく掴めないまま。

contain the enemy's advance

 牽制する筈だったこの時のやり取りが実はまったくの逆効果で、どうやら折原に必要以上に気に入られてしまったらしい俺が、静雄に余計な心配をさせてしまうことになるのは……これからそう遠くない、未来の話。





( 2010/09/10 )