「いらっしゃいま――」 せ、と言う前に固まって、しばし見つめ合うこと数十秒。先に動き出したのは、もちろんと言うべきか相手の方だった。 「やあ。遊びに来たよ」 「…臨也。せめて、髪切りに来たよって言ってくれないかな」 閉店間近とはいえ、はまだ仕事中なのだから一緒に遊べるはずもない。そもそも仕事中でなくとも、彼が遊びに来たなどと言うと、「と」ではなく「で」に聞こえるから素直に頷くことは出来ないだろう。そしてこの後の予定を考えると、間違いなく後者が正解だ。 「じゃあ、髪洗ってくれる?」 「洗うだけ?―――自分でやればいいのに」 思わず溜め息が漏れる。それなのに断らないは甘いのだろうか。せめてと思い、勝手にシャンプー台の前に座る臨也を睨み付けても、面白がられるだけで意味はなかった。あんまり喜ばせるのもあれなので、睨みはすぐに引っ込めて早速臨也の髪を洗いにかかる。 「そういや、1人だけ?」 「ああ…うん。予約も後は入ってないし、父も兄も戻ったから」 元々は父と母が切り盛りしていた小さな理容室だ。兄とが美容師と理容師、2つの資格を取って働くようになってからは、店の名を変え顧客の年齢層も大幅に広まったが、それでも街中にある大手の美容室のように、開店から閉店まで混み合うようなことはほとんどない。実際、今日も昼間は混んだが今は客の姿はなく、父も兄も売上を集計するため、2階の自宅に戻っている。だからこの場にいるのは、臨也との2人きりだった。 こんなところを見られたらまた怒るんだろうなと、臨也の髪を洗いながら、再び溜め息を吐く。 「溜め息なんて吐いちゃって。幸せ逃げるよ?」 「いーよ、これから会いに行くから」 「…って時々物凄く寒いこと言うよね」 「え、何が?」 本当のことを言っただけなのに、寒いと言われるのは心外だった。にとっての幸せが何であるかは、臨也だってよく分かっているだろうに。 「てゆーかさ。臨也、俺がこれから静雄に会うって知ってるんだろ」 「何のことかな?」 「よく言うよ…」 あまりの白々しさに、洗い終えた髪をブローしていた手に力が入る。そのせいで引っ張ってしまって、「いたっ」と小さく臨也が声をかけた。 「あ、ごめん」 「仕返し?」 「違います。…ていうか、仕返しされるようなことやってるんじゃん」 「はは」 「――はい、終わり」 ドライヤーのスイッチを切って、手櫛で髪を整える。いじっていない黒髪はさらさらと流れて、臨也の綺麗な顔を更に際立たせた。 「ありがとう、。これ、お代」 にこやかに笑う臨也が手渡してきたお金は、明らかに髪を洗うだけにしては多い金額だった。驚くよりも呆れて、もう溜め息すら出ない。手の中にあるお金をそのまま臨也に押し付けて、じろっと睨み付ける。 「舐めてんの?」 「舐めてもいいの?」 べ、と舌を出した臨也を軽く殴る。 「俺は金が欲しくて臨也と付き合ってるわけじゃない」 「…うん、ならそう言うと思ったよ」 なら何で、とはその理由に思い当たらないが、臨也の言い分としてはこうである。返答は簡単に推測出来るけれど、それを本人の口から聞きたかった。ただ、それだけなのだ。 「じゃあ、幾ら払えばいい?」 「別にいらない。髪、引っ張っちゃったし」 「そんなのいいのに」 「お前は友達だからいいかもしれないけど、お客さんにはそうはいかないだろ」 多少心が乱れたくらいで髪を引っ張ってしまうようならプロとは言えない。それを考えれば、臨也には練習台になってもらったようなものだ。それで代金を貰うだなんてもってのほかだった。 の美容師としてのプライドを理解したのか、臨也はふっと微笑んで、手の中の札束を財布にしまいこんだ。 「それじゃあ今度、ご飯でも食べに行こう。奢ってあげるよ」 「あ、それなら喜んで」 臨也と行くなら池袋じゃなくて新宿の店に連れてってもらおうかな、と考えるうちに、頬が緩んでいたらしい。それが可笑しかったのか、じっとを見ていた臨也は、くつくつと肩を震わせて笑っている。 「何?」 「いや…って面白いよね」 「そう…?」 「が好きそうな店、探しておくよ」 楽しみにしてて。そう言って臨也は、軽い足取りで店を出て行った。 「…邪魔しに来たわけじゃなかったのかな?」 臨也が突然来て突然去って行くのはいつものことなので別段気にもならないが、邪魔しに来たにしてはあっさり帰って行ったなと首を傾げる。何か話をしにきたという雰囲気でもなかったけれど、他に用事があったのだろうか。 「お、誰もいないな。、店閉めるぞー」 「あ、うん」 不思議に思ったものの、2階から閉店作業のために降りてきた父にそう促され、そのことはすっかり頭の片隅に追いやられてしまうのだった。 だからは知らない。 「…ただ単に会いたかっただけだなんて、はきっと考えもしないんだろうなあ」 店を出た後、ぽつりと呟く臨也の姿なんて。 one-side
( 2011/01/16 )
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