襖の向こうからしていた衣擦れの音が止み、チリン、と小さく鈴の音が響いた。その鈴の音とともに、目の前の襖が静かに開く。そこに立っていたのは皆のよく知るではなく、そして甘味処の志乃でさえもなかった。雅な着物に身を包み、妖艶に微笑む姿は、正に島原の女である。


「ほう…見事だな」


 土方がにやりと笑うと、は微かに目尻を下げ、リン、と鈴を鳴らした。


「?何だそりゃあ」
「返事、か?」


 首を傾げる新八と原田には、の代わりに山崎が口を開いた。


「島原では口をきけない設定でいきます。誰かに話す必要がなければ、男の口は軽くなりますから」
「相槌代わりの鈴ってわけだ。何かしら反応が返った方が、話し甲斐があるってもんだからな」
「へえ、面白ぇな。気分によっては音も変わるのか?」


 原田の言葉には少し思案するようにして、リン!、と強く音を鳴らして頬を膨らませた。リーン…、と小さな音を長く響かせては顔をしかめ、チリンチリンと二度鳴らした時は目を細め頬を緩めた。普段のからは考えられないほど、感情豊かに。


「すげー!何か分かった!」


 楽しそうに騒ぐ平助の両隣で、原田と新八は顔を見合わせ嘆息した。志乃もそうだが、何故それが本来の姿の時も出来ないのだろう。先程浮かべたまるで花が綻ぶような笑顔など、普段は絶対に浮かべない。変装前と変装後では、は外見も性格もがらりと変わるのだ。


「あれはもったいなくねぇか?」
「おう。なあ、そんな可愛い笑顔、客に見せる必要ねぇよ」
「何言ってんだお前ら。情報仕入れるためにも愛想は振り撒くに超したことねぇだろうが」


 チリン、と一度だけ鈴を鳴らしたは無表情で、まるで「土方さんの言うとおりだ」とでも言っているかのようだった。それがふたりには面白くない。
 そもそも情報収集のためとはいえ、ひとりを島原に送り込むことからして面白くないのだ。志乃がいる甘味処と島原はまるで違う。島原は欲望が渦巻く色街だ。遊女としてではなく芸姑として潜り込むと知っていても、不満と不安が強く残る。
 土方はそんな新八と原田を一瞥してから、に着替えてくるよう命じた。それに頷き返し、は来た時と同じように静かに隣の部屋へと引き返す。ぱたりと襖が閉まったのを見届けて、土方は億劫そうに口を開いた。


は女子供じゃねえんだぞ。自分の身ぐらい自分で守れんだろ」
「そうは言ってもなあ…」


 新八と原田が何を心配しているか分かっていての言葉も、頭では頷けても心が頷かない。は腕も立つからちょっとやそっとの男が相手でも簡単に屈したりはしないだろうが、万が一ということもある。呆れたのかそれ以上何も言おうとしない土方と、何を想像しているのか顔を顰める原田と新八。しばらく続いた膠着状態に終止符を打ったのは、それを見ていた平助の一言だった。


「そんなに心配ならさあ、たまに遊びに行けばいいんじゃね?」


 目から鱗とは正にこのことである。
 勿論、は仕事で潜入するのだから、邪魔をしてはならないことなど百も承知だ。だが、新選組の中でも島原の常連でもある新八と原田がたまに顔を合わせるくらいならば、むしろ自然なことではないだろうか。四六時中一緒にいられるわけではないので根本的な解決にはならないにしても、まるで事情が分からないよりは余程良い。


「平助、いいこと言うな」
「え、そんないいこと言った?」
「言った言った。今度うまいもん奢ってやるよ」


 両脇から駄目な大人ふたりに肩を組まれたり頭をわしわしと撫でられている平助を無表情に眺めていた山崎が、無言のまま土方を見る。その瞳の言いたいことはよく分かった。「良いのですか?」。


「…まあ、たまにならいいだろ。いいか、たまに、だからな」


 土方の承諾にいい年して瞳を輝かせたふたりに釘を刺していると、すう、と再び襖が開いた。本来の姿に戻ったは、むすりと顔を顰めている。どうやら今の会話は全て筒抜けだったらしい。


「来なくていいのに」
「気持ちは分かるが、許してやれ。でないとどうなるか分かったもんじゃない」


 疲れた様子の土方に、は眉を寄せて、「すみません」と頭を下げた。それから目つきを鋭くして、原田と新八を見やる。


「ただでさえふたりがいるとやりにくいんだ。邪魔だけはするなよ」
「分かってるって」
「気を付ける」


 原田の返事は良いにしても、新八の返事はどうにも軽い。


「新八、」
「絶対邪魔しねえよ。約束する」


 だから念を押すために硬い声で名前を呼ぶと、新八は観念したように両手を上げた。


「やっぱはこうじゃねえとな」


 先程までの豊かな表情が嘘のように無愛想になったを前に、新八が原田に対してぼそりと呟くと、じろりと睨まれた。褒め言葉だったのだが、には嫌味に聞こえたらしい。


「怒んなよ。素が一番だって言ってるんだからよ。なあ左之?」
「ああ」
「それはどうも」


 相も変わらずはむすっとしているが、悪い気はしていないようだった。新八と目が合ってすぐに逸らしたのも、気恥ずかしいからだろう。付き合いが長いので、表情には出なくともその心境は計り知れるのだ。


「新ぱっつあんと左之さんは本当さんのこと大好きだよなー」


 その光景を眺めていた平助はふと呟いて、それからに視線を移した。


「俺も大好きだけどさ!」


 何の衒いもなくそう言って笑う平助には、さすがのも弱い。つられるように頬を緩めるその姿は、先程作られた笑顔よりも何倍も綺麗だった。


「ありがとう、平助」


 これだから素のままのが良いのだと思いつつ、気に食わないのはやはり新八と原田のふたり。目に焼き付けるためから視線は逸らさず、ぼそぼそと言葉を交わす。


「…俺たちも素直になればあんな風に笑ってくれんのかねぇ」
「いや…気持ち悪いって一蹴されんのがオチだな」


 がっくりと肩を落とすふたりに、土方は呆れながら溜め息を吐いた。と一番親しいのは間違いなく新八と原田なのに、彼等は知らないのだ。が一番綺麗に笑うのは、ふたりの傍にいる時だということを。

花綻ぶとき

( 2011/05/08 )