「…?どうしたんだ、この傷」


 無骨な指先が頬を撫でる。いつもはふざけた様子の新八が今は余裕のない瞳で俺を見ていて、それが怒りを抑えているからだということは考えなくても分かった。
 俺の頬に走る一本の傷は、鏡で見た時、刃物で切り付けられたかのように見えた。だから新八にもそう見えたのだろう。誰にやられたんだと、瞳がそう問い掛けてくる。
 普段なら誤魔化したかもしれない。これは俺の落ち度でしかないから、出来るなら報告しなければならない副長以外に言いたくはなかった。だけど、この状態の新八相手に誤魔化したりなんかしたら、火に油を注ぐのと同じこと。
 頬に添えられた新八の熱い手のひらに手のひらを重ねて、ふう、と小さく息を吐く。眉を寄せた新八が俺をじいっと見つめるのが分かったけど、これから言うことがあまりにも情けなくて視線は合わせられなかった。


「…弦が切れたんだ」
「あ?ゲン?」


 白状したのに、案の定、新八は訳が分からなさそうだった。この様子だと、ゲンが弦だということにも気付いていないかもしれない。


「だから…座敷の仕事が終わって弦の手入れをしてたら、それが切れてしまったんだよ」
「ああ、弦か。…だが、そんなんでこんな風になんのか?」


 一から説明すれば意味が通じたようで、一瞬腑に落ちたような顔を浮かべたものの。琴とかそういうものに通じていない新八は弦がどれだけの強度を誇るのか知らないらしく、弦が切れただけで切り傷みたいな痕がつくとは到底思えないようだった。


「なったんだから、なるんだろ」


 俺だってこんな情けない怪我の仕方なら、名のある相手に切り付けられたと思いたい。…実際、それはそれで嫌だけれど。
 憮然とした表情で呟くと、新八はそれが真実だと信じたらしい。そうか、と鋭かった瞳を細めて、閉じた傷痕を親指でなぞる。


「…っ」
「ん?悪ィ、開いちまったか」


 だけど負ったばかりの傷は、完全に閉じていたわけじゃない。節くれだった指先でなぞられたことで、傷口の一部が開いてしまって。


「血が出てきたな…」


 滲み出たらしい俺の血を、新八はべろりとざらついた舌で舐め上げた。


「っ!…や、ちょ、新八…っ」


 いつの間にか腰に回っていた腕に引き寄せられて、新八との距離が零になる。血を舐め取るだけならばもう十分なはずなのに、新八の舌は頬だけじゃなく耳や首筋までも舐め回して、最後に唇を割って入ってきた。


「んぅっ!?っは、…ん…っ」
「色っぽい声。…吉原で覚えたか?」


 散々口内を蹂躙された後に耳元で囁かれて、カッと頬に朱が差す。厚い胸板を押し退けて睨み付けると、新八は優しい眼差しで俺を見ていて、思わずたじろいでしまった。その隙を見逃さず、また強く抱き締められる。


「…あ、”明月”はそんなんじゃない…」
「分かってるよ」


 ”明月”はあくまでも芸妓だから、誰かと床を同じにしたりしない。新八もそれは知っているはずだけど敢えてそう言えば、やっぱり優しい声でそう返ってきた。


「…何でそんなに機嫌良くなってるんだよ」
「ん?…毎日綺麗な女に囲まれてるのに、俺に感じてくれんのかと思ってよ」


 元々男色家だったわけじゃない俺は、新八とこういう関係になるまでは普通に女が好きだった。それを知っている新八は、俺が女に靡くかもしれないと思っていたのだろうか。女の園というものがどういうものか知ってしまった俺としては、それはないと言えるけれど。確かに普通に客として赴けば、吉原は楽園だ。
 だけど心配なのは新八の方だ。俺が”明月”として吉原で働くようになる前から、新八は吉原の常連だったのだから。


「…新八は、俺より吉原の女の人たちの方が良い?」
「んなわけねぇだろ。そりゃあ綺麗なねーちゃんたちを侍らせるのは好きだけどよ、がいるならそんなのいらねぇよ」


 その言葉に胸が暖かくなる。そろそろと背中に手を回すと、今度は啄むような口付けが降ってきた。


「…でもよー」
「ん、…なに?」
「これからは気ィ付けろよ?弦が切れたんなら仕方ねぇが、それにしたってが怪我すんのは嫌だからな」


 消毒のつもりなのか、また頬の傷を舐めながら紡がれた言葉にくすぐったさを感じながらも、頷いて。誓いの意味を込めて、今度は俺から口付けた。

紅い誘い

( 2011/07/11 )