ポツン、と。 頬に冷たい雫が落ちてきた。 天を仰ぐと先程まで少し見えていた青は灰色に変わっており、先の一滴を始めとして沢山の涙を流した。 降り注ぐ雨を避ける術を、は持っていない。 ポンッという音と共にグラウンドのあちこちで様々な色をした傘が開いていく様子を見ながら、今日の天気予報は雨だったっけかと、濡れるのも構わずにそんなことを考えた。 「…何やってんすか、センパイ」 突如かけられた声は、うんざりといった感じで。 ゆっくりと振り向けば、やはり顰めっ面が視界に入った。 「凍也」 「凍也じゃねっすよ。濡れてんじゃないですか」 紺色の傘を差した1つ下の後輩は、の腕を引っ張ると、その傘の中に引き込んだ。 今更なのにというの文句は、がさごそと鞄を漁る夷澤には聞き入れられない。 夷澤は部活用に持ち歩いている大きめのタオルを引っ張り出すと、それをの頭に被せ、その腕を掴んだまま歩き出した。 「え、ちょ、凍也!」 「センパイに風邪ひかれたら困るんすよ。それで拭いて下さい」 「でも腕、」 「左手、使えるでしょう」 確かに夷澤に掴まれているのは右手だけだから、左手は自由に使うことが出来る。 有無を言わさぬ口調に、は小さくハイと頷いた。 元々は左利きであり、右手が使えなくて困ることはないのだ。 雨に濡れたせいで重く感じる腕で、わしゃわしゃと髪に含んだ水分を吸い取っていく。 その間も夷澤は、歩くスピードを緩めない。 「…部活は?」 「休み」 沈黙が耐え切れなくて問い掛けると、簡潔な答えが返ってきた。 その声が怒りを含んでいることに気付いて、はそれ以上声をかけることはしなかった。 その代わり頭の中で、何か怒らせるようなことをしただろうかと考える。 特に思い当たる理由はないと思うのだが、ちらりと盗み見るように見た夷澤の横顔は無表情で、やはり怒っているようにしか見えない。 考え込んでいる内に寮へと辿り付いて、気付けばは夷澤の部屋に連れ込まれていた。 「センパイ、制服脱いで下さい。乾かしますから」 「う、ん」 自分の部屋に行って着替えた方が早いと思うのだが、今の夷澤はそう言っても聞き入れてはくれないだろう。 言われた通りに制服の上着とズボンを脱いで、手渡された夷澤のジャージに着替えた。 身長はの方が少しだけ高いのだが、あまり違いはないので問題なく着ることが出来た。 ベッドに座って辺りを見ると、格闘系の雑誌やらグローブやらが沢山置いてあり、本当にボクシングが好きなんだということが窺えた。 パラパラと雑誌を捲っていると制服を干しに行っていた夷澤が戻ってきて、当たり前のようにの隣に腰を下ろす。 は気まずさから雑誌に視線を落としたまま、取り敢えずはありがとうと感謝を示した。 「どう致しまして。…つーかセンパイ、何であんなトコでぼーっとしてたんすか?」 夷澤は、が雨が降り始めた時に天を仰いでいたことを言っているのだろう。 思わず夷澤の方を見ると目が合って、そのむすっとした表情は何処か拗ねているように見えた。 「え、…何となく」 「そーですか」 「……凍也、何か怒ってねえ?」 「怒ってます」 否定するかと思えば夷澤は意外にも肯定して、の濡れた髪に手を伸ばした。 「あんな無防備に突っ立って…危ないったらありゃしないっすよ、ホント」 「危ない?」 髪を掻き上げられる仕草がくすぐったくて身を捩りながら、は何がだろうと思って問い掛ける。 水滴じゃない何かが落ちてくる訳じゃあるまいし、何も危ないことはないと思うのだが。 首を傾げると、夷澤は呆れたように溜息をついた。 「…センパイモテんだから、少しは気ィ付けて下さいよ。さっき凄い好奇な目で見られてたの、気付いてないんすか?」 「何か変だったか?」 は好奇の意味を違う意味で取ったらしい。 噛み合わない会話に夷澤は痺れを切らして、ちっと舌を鳴らしてからの後頭部を掴んで引き寄せた。 驚いたは目を見開いたまま、半分開いていた唇を奪われる。 「んぅ…っ!?」 「…こんなことされてもおかしくなかったんすからね!」 そのままぎゅうっと抱き締められて、頬だけじゃなく顔全体に熱が篭るのを感じた。 実行に移されなければ言葉の意味を理解出来ない自分は、何て情けないのだろう。 それと同時に嫉妬してくれたらしい夷澤に、何とも言えない愛しさが込み上げた。 「凍也」 「何すか」 「俺、凍也のこと凄い好きかも」 「……そーですか」 照れているのかいつもよりも素っ気無い態度に、はふわりと笑った。 九龍で一番好きなのは夷澤です。 |