俺が鉄朗に抱く感情が、友情から恋情に傾き始めている自覚はあった。けれど、流されているだけなのかもしれないと、そう思う自分もいて。なかなか結論を出せずにいた頃―――事件は、起こった。

Amor del destino

「黒尾くんと付き合ってるの?」


 廊下ですれ違うなり、そう声をかけられてぎょっとした。
 今は帰りのホームルームが終わったばかりで、廊下は帰ろうとしている人や部活に行こうとしている人たちで溢れ返っている。だから当然今の声もばっちり聞かれていて、その質問の相手が女の子じゃなくて男である俺だということに、周りは興味津々といった様子で足を止めて、不躾な視線を投げ掛けてきた。


「な…っちょっと、こっち来て」


  とりあえず場所を移そうと、女の子の腕を掴んで近くの空き教室に逃げ込んだ。その間も周りの視線は感じていたけど、戸を閉めてしまえば関係ない。好奇の視線から逃れられたことにほっと息を吐いたのも束の間、その原因となった女の子の存在を思い出して、また体が強張った。
  向かい合った彼女は、俺を敵意剥き出しで睨んでくる。…何で、なんて、さっきの言葉を思い出せば考える必要もなかった。きっとこの子は鉄朗のことを好きなんだろう。だったら理由はひとつしかない。


「黒尾くんをたぶらかすの、やめてくれない?」
「え……」


  言われたことの意味が分からなくて首を傾げる。たぶらかすって、俺が…?
  きょとんとする俺に焦れたのか、女の子は更に目を吊り上げて詰め寄ってくる。


「とぼけないで!あんたがたぶらかさなきゃ、黒尾くんが男なんか好きになるわけないでしょ!?黒尾くんから離れてよ!」


 男なんかという言葉は、俺なんか、と言われているのと同じで、ぐさりと胸に突き刺さった。どうして今まで顔も知らなかった女の子にこんなことを言われないといけないんだろう。…けれどそう思うのと同時に、そうなのかもしれない、とも思ってしまう自分がいる。
  鉄朗は男が好きなわけじゃない。今までは普通に女の子を好きだったし、男を好きになるのは俺が初めてだと言っていた。俺と出会わなければ、男を好きになるという茨の道を歩むこともなかったのかもしれない。……だから、たぶらかしたという言葉が適切なのかどうかは分からないけれど…彼女の言葉がまるっきり間違っているとは、俺には言えなかった。
  何も言えずに黙り込むと、痛いほどの沈黙に包まれる。けれど本当に痛いのは、彼女の視線かもしれない。クラスメイトが好意的に受け入れてくれているから、忘れていた。俺を好きだという鉄朗も、その気持ちを嬉しいと思う俺も、世間から見れば異常でしかないということを。


「――…!…!!」
「…何…?」


  身に突き刺さるような沈黙を破ったのは、俺でも彼女でもなく、教室の外から聞こえてきた喧騒だった。怒号が聞こえてきたと思ったら、それと一緒に廊下を走る足音が近付いてきて、彼女が怪訝そうに眉を顰める。 けれど、俺にはその中心にいるのが誰なのかすぐに分かった。
 来てくれた、そう思って、胸がきゅうっと締め付けられる。そして、それと同時に自覚した。 この子に何を言われても、周りに変な目で見られてもいい。そんなことはいくらだって耐えられる。だってそんなことより、鉄朗の気持ちが俺から離れていくことの方が、ずっと辛い。 ―――いつの間にか、そう思えるくらい、俺は鉄朗のことを好きになっていたんだ。


「っ、!!」
「黒尾くん!?な、何で…っ」


 ガラッと乱暴に戸を開いた鉄朗に、彼女は焦ったように顔色を変えた。鉄朗はそんな彼女に見向きもしないで、呆然と佇む俺に駆け寄ってきた。そして俺を庇うように背中に隠すと、ようやく彼女と向かい合う。


に何言ったんだよ」


  地を這うような低い声に、彼女はびくりと肩を震わせる。もしかしたら彼女は、対外的な愛想の良い鉄朗しか見たことがなかったのかもしれない。信じられないものでも見るような瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。


「何言ったんだよっつってんだよ!」
「ご、ごめんなさ…っ」


 怒鳴られて、とうとう彼女の目から涙が零れ落ちる。鉄朗は怒気を和らげるどころかそれにすら忌々しげに顔を顰めるから、彼女は声を上げて泣き出してしまった。 その姿を見ていると胸が痛んだ。
 彼女はただ、鉄朗が好きだっただけだ。その好きな人が同性を好きだと知って、きっととても傷付いたんだろう。なら、彼女を傷付けたのは俺だ。その責任を取るわけじゃないけれど…彼女相手に、誤魔化すことはできないと思った。


「俺と鉄朗は付き合ってないよ」


 思わず零れた言葉に、彼女が顔を上げる。嘘吐き、そう言いたいのに、鉄朗の手前、言えないでいるんだろう。その目には、憎悪のようなものが込められていた。
 だけど、黙り込むわけにはいかない。俺がこれから言おうとしていることは、その感情を煽ることになるんだろうと、分かっていても。俺にも、譲れないものがある。


「だけど鉄朗は、俺のこと好きだって言ってくれてる。…俺は、その気持ちに応えたいと思ってる」


 真正面から彼女を見つめてそう告げると、彼女が一瞬怯んだように見えた。そしてそれと同時に、目の前の肩がびくりと揺れる。本当ならこんな風に間接的にじゃなくて、直接鉄朗に伝えたかった。ごめん、と、ちょっと待ってね、の意味を込めて、そっとその背中に触れると、その肩から力が抜けるのが分かった。


「…男同士なんて、うまくいくわけないじゃない…っ」
「…そうかもしれないね」


 苦し紛れのような彼女の言葉には、頷くしかない。そんなことは、俺だって分かってる。他の誰でもない、彼女がさっき教えてくれたばかりなのだから。


「でも、それでもいいんだ。他の人に何を言われたって構わない。そんなことより、鉄朗が俺から離れてしまうことの方が怖いって……気付いたから」


 はっと声を上げたのが、彼女なのか鉄朗なのかは分からない。けれど俺を睨み付けていた彼女は何故か苦しそうに唇を噛み締めて、そのまま何も言わずに教室から走り去ってしまった。
 認められたわけではないと思う。だけど…俺も彼女と同じで鉄朗を好きなだけなんだということは、わかってくれたのかもしれない。
 一息吐くと、後ろから強い力で抱き締められた。


「…さっきの、本当か?」


 押し殺したような声が、耳元で呟く。
 きっとずっとそう聞きたかっただろうに、俺と彼女が話している間、鉄朗は口を挟むことはしなかった。他にも言いたいことはいっぱいあったはずなのに…それでも何も言わなかったのは、俺を尊重してくれたからに他ならない。
 そっと腕を外して、向かい合う。正面から見つめた鉄朗の瞳は、いつもの鉄朗からは想像もつかないほど不安そうに揺れていた。


「…うん。鉄朗が、好き」


 その不安を消し去るためにもはっきりと告げたかったのに、実際の声は、ちょっとどころじゃなく掠れて震えてしまっていた。だけど鉄朗は本当に嬉しそうに笑ってくれたから、胸がきゅっと苦しくなる。
 いつも自信に満ちている鉄朗が、俺の一言で不安になったり、こんなに喜んでくれたりする。それに対して湧き起こるのは、優越よりも泣きたいくらいの幸福で。


「…ねえ、鉄朗」
「何だ?」
「俺のこと、好きになってくれて、ありがとう」


 自然と、そんな言葉が口から零れた。
 鉄朗も男で、俺も男。そのことに、この先、不安がないと言ったら嘘になる。さっきの彼女みたいに嫌悪を示す人たちは、応援してくれる人より遙かに多いのだろう。きっと間違いなく、男女間の恋愛に比べて、立ちふさがる壁の数だって多い。だけど、


「バカ、それは俺の台詞だろうが」


 だからこそ、好きな人と想いを通わせられるのは、まるで奇跡のようなもので。
 その奇跡を手に入れた俺は、世界中の誰よりも幸せだと思えた。





( 2014/12/29 )