「すげーな、」 しみじみとジャッカルが隣で呟いたのに対して、俺はきょとんと首を傾げた。そんな風に言われるようなものが俺にはあっただろうか。謙遜するつもりも卑下するつもりもないけれど、本当に何も思い浮かばない。ジャッカルや他の人たちの凄いところなら簡単に思い浮かぶのに。 そんな俺にジャッカルは苦笑いを浮かべて、アレ、と仁王を指差した。 「どうやって手懐けたんだ?」 「手懐けたって…猛獣じゃないんだし」 「あいつは猛獣なんだよ」 パチン、と膨らませた風船ガムが割れる音。いつの間にか、俺の隣にブン太が立っていた。 「どこが?」 ブン太だけならまだしもジャッカルも言うくらいだからまるっきり嘘というわけでもないんだろうけど、俺には仁王が猛獣だなんてとても思えないし、そういうところを見たこともない。不思議がる俺にふたりは顔を見合わせる。 「…なぁ、これって本気か?」 「には優しいみたいだからな」 …何か色々と突っ込みたいところがあるけど、一体仁王は、日頃ジャッカルたちにどんな接し方をしているんだろう。ふたりが話す仁王はまるで俺の知らない人みたいだ。 「それよりさっきから視線感じんだけど…、仁王こっち見てねぇ?」 「え?…あ、ほんとだ」 ブン太に言われて仁王を見ると、ばっちりと目が合った。ひらひらと手を振ると、軽く手を上げて答えてくれる。何だかそれにほっとした。よかった、俺の知ってる仁王だ。 「に余計なことばっか言うと何されっかわかんねぇな…」 「そうだな…。それに、そろそろ練習に戻らないと」 ふたりの言葉にはっとする。今はテニス部の休憩時間で、俺はブン太に担任からの伝言を伝えにきただけだった。 「あ、ごめんな、邪魔して」 「こっちこそ変なこと言って悪かったな。あんま気にすんな」 ジャッカルが言っているのは多分、猛獣仁王のことだろう。俺が気にしていたことに気付いたのかもしれない。 「うん」 気にしてないよと笑みを作る。ジャッカルは申し訳なさそうに一度眉を寄せて、結局それ以上は何も言わなかった。 コートに入ったふたりの背中を眺めながら、知らず漏れたのはさっきよりも深い溜め息。仕方ない。あのふたりの方が俺より仁王との付き合いは長いんだから。そう言い聞かせても、感情が言うことを聞いてくれない。 仁王と付き合い始めてからの俺は嫉妬ばかりしているような気がする。まさか、ジャッカルたちにまで妬いてしまう日が来るなんて思わなかった。女々しいというか、何というか…そんな自分に、本当に呆れてしまう。 「、どうしたんじゃ?」 ふたりがいなくなったのを見計らって声をかけてきてくれた仁王をじっと見つめる。こうやって俺を気にかけてくれるのも、俺がよく知る仁王だ。 「仁王、今日一緒に帰れる?」 「…お前さんがが待っちょってくれるんなら大丈夫じゃが」 「じゃあ、教室で待ってる。部活頑張れ」 仁王は何か言いたさそうにしていたけど敢えて気付かない振りをして、ぽん、と仁王の背中を叩いてからコートを後にした。 * 向かった教室にはもう誰もいなかった。夕陽が差し込んで橙色に染まり、部活の声や楽器の音が遠く聞こえてくる。 そのまま窓際に寄って、からからと窓を開ける。差し込む風が心地好い。 昔から待つのが苦にならない性格だった。こうやって外を眺めていると変化するものが結構あって、飽きが来ないからかもしれない。例えば雲の流れとか、影の形とか、空の色だとか。ゆっくりと、だけど確実に変わっていくものを見るのは楽しい。 それに比べて、人の心はどうだろう。変わっていくのを見るのは楽しいことばかりじゃない。そもそも、本当に変わっているのかすら分からないのだし。 そんな風に見えないものでも、仁王が俺を好きだと言う、その言葉を疑ったことはない。相手は詐欺師とさえ呼ばれるほどの相手なのに、どうしてだろう。そう考えた時、答えはすぐに思い当たった。…多分、最初から優しかったからだ。見返りなんてあるわけもないのに、仁王はずっと俺に優しかったから。 でもそんな仁王を、ブン太たちは有り得ないものでも見るかのような目で見る。そしてさっきのように、俺の知らない仁王を語る。 果たしてどっちが本当の仁王なんだろう。俺には分からない。たかだか数ヶ月しか一緒に過ごしていない俺には、どっちも本当なのだと信じることしか出来ない。 「」 かた、と音がして、背後からふわりと抱き締められた。シャワーを浴びてきたのか、汗の匂いはしない。だけど耳元で聞こえる吐息が、少しだけ弾んでいた。 「…走って来なくても良かったのに」 「を待たせとけんじゃろ」 振り向いて、正面から抱き着く。いつもだったら誰もいないとはいえ教室でこんなことをするなんて考えられない。案外さっきの一言が響いているのかもしれない、そう思いながら、仁王の肩口に額を押し付ける。 「…何があったんじゃ?」 「……俺さ、仁王が好きだよ」 「……」 「だから、仁王の全てが知りたい」 俺に対する、優しい仁王だけじゃなくて。ブン太たちが話すようなちょっと意地の悪い仁王や、テニスに必死な仁王のことも…全部、知りたいと思う。 「鬱陶しいかもしれないけど、でも…っんぅっ?!」 教えて、ほしい。 仁王の目を見て、そう続けるはずだった言葉は声にならなかった。後頭部を押さえ込まれて、今まで体験したことのない激しさで唇を奪われる。 前の彼女とも仁王とも、触れるだけのキスしかしたことがなかった。だから舌を絡め取られると呼吸の仕方がわからなくなって、何も考えられなくなる。 きゅ、と仁王の制服を握り締める。そうでもしないと立っていられなくなりそうだった。それに気付いたのか仁王は俺の腰に腕を回して、更に密着度が増す。互いの心臓の音さえ聞こえそうな距離。近すぎて、仁王の顔もよく見えない。 ようやく解放されて、聞こえるのは自分と仁王の乱れた呼吸だけ。先に呼吸を整え終えた仁王は、さっきよりも優しく俺を抱き締めた。 「…すまんの。があんまり可愛いこと言うから、抑えきれんかった」 「…鬱陶しくないの?」 「俺も同じじゃ。のことなら何でも知りたい」 ……どうしよう、泣きそうだ。やっぱり仁王は俺に優しくて、俺が嬉しくなるようなことしかしないし言わない。 「……不安にさせたか?」 「不安とはちょっと違うかな…。ブン太たちが俺の知らない仁王の話をするから、ちょっと妬いた」 「……」 「…ごめん、嘘。ちょっとじゃなくてかなり、です」 無言になった仁王にそう白状しても、相変わらず仁王は黙り込んだままで。今度こそ呆れられたかと恐る恐る顔を覗き込もうとすると、またぎゅっと抱き締められた。 「わ、」 「見たらあかんぜよ。…だらしない顔しちょるからの」 「…全部教えてくれるんじゃなかったのか?」 笑い混じりでそう言うと、格好悪いところは別じゃ、と返ってきた。それを言われると痛い。俺は仁王に、最初から格好悪いところしか見せていない。何せ付き合うようになったきっかけだって、元カノにフラれて泣いているところを見られたからだったのだし。格好悪いにもほどがある。 そう言うと仁王は顔を隠すのを止めて、ゆるゆると首を横に振った。 「格好悪くなんてなか。…一目惚れじゃったんじゃ」 思いがけない言葉に、心臓がありえないほど大きな音を立てる。多分今、俺の顔は真っ赤だ。 「あの日、泣きながら笑ったは他の誰よりも綺麗じゃった」 「そんな、」 そんなこと、誰にも言われたことない。正直地味な顔立ちの俺が綺麗に見えるわけないと思うけど、仁王は真剣な表情を浮かべている。…その表情が嘘だとは思えなかった。きっと俺が仁王の全てを知りたいと言ったから、今までどんなに聞いても教えてくれなかった仁王が俺を好きになった理由を、一番最初に教えてくれたんだろう。 「…ありがとう」 だから否定するのを止めて、ちゅ、と軽くキスをした。感謝を表すためのものだったからすぐに離れようとしたのに、仁王はなかなか離してくれない。身を引いても追い掛けてきて、啄むようなバードキスを何度も仕掛けてくる。 …もしかして仁王、キス好きなのかな…。 「ん、…仁王、」 「…のう、。それなんじゃが」 けれど名前を呼んだ瞬間、仁王は唇が触れ合うような距離のまま、少しだけ顔を顰めた。 「名前で呼んでくれんかの」 「え…いいのか?」 俺の知る限り、仁王のことを下の名前で呼んでいる人はいなかった。仁王の元カノでさえ名字で呼んでいたから、俺も何となく呼んじゃだめなんだと思ってずっとそう呼んできたんだけど…。仁王は俺の問い掛けに頷いて、どこか期待したような目でじっと見つめてくる。…そんな仁王が可愛くて、ふっと笑みが零れた。 「…好きだよ、雅治」 「………」 俺の言葉ににお…雅治は何も言わず、ただこっちが照れてしまうくらいの蕩けそうな顔で微笑んだ。その顔を見たら、ああ嬉しく思ってくれているんだなというのが、言葉より雄弁に伝わってきて。こんな表情も出来るのだと、俺の知らない雅治を、またひとつ知った。 リトルバイリトル 次の日、テニス部の朝練でブン太とジャッカルを楽しそうに扱いている雅治を見かけた。…多分それがブン太たちの言う猛獣部分なんだろうけれど、普段の俺には優しい雅治とのギャップにときめいてしまって。格好良かったと言った俺にブン太はあんぐりと口を開けて、「…恋は盲目って言うもんな…」とどこか疲れたように呟いた。
( 2011/08/28 )
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