フロムクライ



 一番後ろの俺の席から、教室の真ん中にある仁王の席はよく見える。真面目にノートを取るその横顔を見ながら、不意に溜息が漏れた。
 うちのテニス部はレギュラーというだけでモテるようなそんなところがあるけれど、仁王の場合は間違いなくそれだけじゃないんだろう。かっこいいと、思う。同じ男の俺でも、素直に認めてしまうくらいには。それに、仁王はテニスの試合ではペテン師なんて呼ばれているみたいだけど、俺には意外と素直に表情を見せてくれる。…それもペテンのうちなんだと言われたら、何も言えなくなってしまうけど。悪い奴では絶対にない。
 ブン太は昨日、仁王が告白されたと言っていた。そしてそれを、俺を理由に断ったのだとも。俺が一番大事だというのはとりあえず断るために言った虚言だったとしても、…本当のところは、どうなんだろう。好きな人とか、いるんだろうか。
 もしいるんだとしたら、俺は協力してあげるべきだろう。何せ仁王には、とても迷惑をかけた。
 あの時のことを今思い返してみると、思わず自嘲気味な笑みが浮かぶ。大して仲良くもない奴の前でフラれて泣くなんて、傍から見たら凄く情けないし、格好悪かったはずだ。けれど仁王はその時もその後もずっと、黙って傍にいてくれた。…きっとこういうところも、モテる要因なんだよな。
 これは俺の推測に過ぎないけど、仁王は淡白であまり特定のモノや人を好きになるということがなさそうだから、好きになったら物凄く大事にするんじゃないだろうか。だから彼女ができたら、俺と一緒にいる時間は減ってしまうと思う。それは寂しい、けど、俺のことなんてどうでもいい。俺は仁王に、何かをしてあげたいんだ。


「仁王、好きな奴いる?」


 だから昼休み、そんな風に問い掛けた。仁王はパンを齧るのを止めて、じ、と俺を見た。唐突過ぎたのは百も承知だ。けれど健全な中学生だったら誰だって気になるのがこの話題だし、おかしいことはないと思う。
 視線を逸らさないでいると、仁王の方が耐えられなくなったのか、僅かに眉を寄せて視線をずらした。それから観念したように息を吐いて、ああ、と呟いた。


「…え、いるんだ?」


 自分で聞いておきながら、もしかしたらいないのかもしれないと思っていたせいで面食らってしまった。仁王はそんな俺に、「なんじゃ、その反応は」と苦笑いを浮かべる。


「俺だって男ぜよ。好きな奴の一人くらいおるに決まっとるじゃろ」
「うん、そうなんだけど。…付き合ってたりは、」
「それはないな」


 する、と言われたら今まで教えてもらえなかったのかと落ち込みそうだったから、否定してもらえて安心した。だけどすぐに不思議に思う。好きな人がいて付き合ってないということは、仁王が片想いしているということになる。


「告白しないのか?」
「したら俺のポリシーに反するからの」
「ポリシー?…自分からは告白しないとか?」
「まあそんなもんじゃ」


 それは仁王らしくない気がしたけど、もし自分から告白しないということが、色んな策略を巡らせて相手から告白するように仕向けるということなんだとすれば、ペテン師という異名にはぴったりだ。自分から告白するより余程気力を使いそうで、俺にはできそうにない。
 そう考えたことは、思わず声に出ていたらしい。せっかく食事を開始していたというのに、また仁王の手を止めてしまった。


「確かに、にはそういう小賢しい真似は似合わんな」
「小賢しいっていうか…多分、そういうことしてる間に我慢できなくなると思うんだよな。俺、直情型だから」


 友達曰く、俺は思ったことが素直に表に出てしまうらしい。さすがに付き合いの浅い奴らに考えを読まれるほどではないだろうけど、確かに仲良い奴らには好きな子とかを言い当てられてしまうことが多い。
 好きになったら、話したいと思う。傍にいたいし、触れたい。そんな俺が、相手が告白してくれるのを待ってるなんてこと、できるわけがない。ましてや相手は俺のこと、好きじゃないかもしれないのだから。


「仁王は、我慢できるんだな」
「……」


 どうしたんだろう、と首を傾げる。変なことを言ったわけじゃないと思うけど、仁王は黙り込んでしまった。
 とりあえず返事を待とうと、500mlの紙パックに差し込んだストローを口に含む。さっき購買で買った時は冷えていたはずのオレンジジュースは、すっかり温くなってしまっていた。


「……」
「……」


 俺につられたかのように、ペットポトルを呷った後も仁王は相変わらずの沈黙で、その横顔をじっと見つめる俺の視線にも気付かない。不意に、今日は仁王を見つめてばっかりだ、と気付いた。同じ男である俺に見つめられても、仁王は嬉しくとも何ともないだろう。むしろ気色悪いかも、と思って、ぱっと視線を逸らす。
 仁王を見ないためにも、ひとり黙々とパンを齧り続ける。仁王とこんな風に一緒に昼飯を食べて、他愛のない話をするのも、あとどれくらいだろう。きっと、彼女ができるまでだから…そんなに長くないのかもしれない。
 仁王に彼女ができる日は、きっとそう遠くないと思う。だって、相手は仁王だ。例え仁王の好きな相手が仁王を好きじゃなかったとしても、仁王が本気で自分を好きにさせようとしたら、相手はすぐに落ちるんじゃないだろうか。ていうか、落ちる。絶対に。

 ―――俺の居場所が、彼女に奪われる。

 不意に浮かんだ考えにぞっとした。仁王は大切な友達だし、確かに彼女ができたら寂しくなるかもしれないけれど。それにしたって、奪われる、なんて表現はおかしいだろう。そんなんじゃまるで、俺が仁王のことを


!」
「っ!?」


 大きな声で名前を呼ばれて、はっと我に返った。気付けば仁王が俺の手を掴んでいて、俺が持っていたブリックパックからは、ストローを通じて中身が溢れていた。それは俺の手だけじゃなく、仁王の手まで汚してしまっている。


「ご、ごめん仁王…っ!」
「ああ、別に。洗えばええじゃろ」
「俺、ティッシュ持ってる。ちょっと待って」


 確か学校に来る途中、手渡されたポケットティッシュをそのままブレザーのポケットに突っ込んでいたはず。それを取り出して、仁王の手を拭いていく。でも俺の手も汚れているせいで、なかなか綺麗になってくれない。慌てている俺には、自分の手を先に拭けばいいという簡単なことさえ思いつかなかった。


「貸しんしゃい」


 悪戦苦闘する俺を楽しげに目を細めて見ていたかと思ったら、仁王は俺の手からティッシュを取って、俺の手を指先から一本一本、丁寧に拭き始めた。その繊細な動きがくすぐったいようなもどかしいような、何とも言えない感覚に襲われて、急に触れられていることが恥ずかしくなってくる。いつもだったら何でもない行為なのにこう思ってしまうのは、さっきふと脳裏を過ぎったことが原因なのは明白だった。
 かあっと顔が熱くなる。ばかだ俺、男同士なんだから恥ずかしがる必要なんてないのに。だけどこのままじゃ、仁王に変に思われてしまう。


「に、仁王、自分で拭くから、」
「遠慮しなさんな。俺にだって、我慢できん時ぐらいあるんじゃ」
「え?」


 意味が理解できなくて、問い返した俺に仁王は曖昧に笑った。教えてくれるつもりはないんだとすぐに気付いて、それ以上は俺も何も言えなくなる。
 俺の手も仁王の手も綺麗になった後もそこだけは腑に落ちなかったけど、午後の授業が始まる予鈴がなってしまったために、うやむやなままに終わってしまった。そう言えば結局、仁王の沈黙の理由も分からなかったな。




*きざし





( 2008/09/04 )