フロムクライ
もうひとりの日直が休みだと言ったら、仁王が手伝うと言ってくれた。大丈夫だから部活に行ってと言ったのに全然聞こうとしなくて、最終的に俺が折れるしかなかった。皆が帰った教室の中でふたりきり、今日に限ってたくさんある日直の仕事を黙々とこなしている。 だけど日直の仕事も、もうこれが最後。仁王が黒板を消してくれている間、俺は日誌を書き終えた。時間割、休んだ人の名前。その他、感想などなど。昨日の奴に比べて短いけど、それは見逃してもらおう。 何となく窓の外に目をやると、空の色が見事にオレンジに染まっていた。それがあんまり綺麗だったから、近くで見ようと席を立って、吸い寄せられるように窓際に寄る。けれど俺の目に映ったのは目的の空ではなく、窓の下を歩く椎名の姿だった。 多分、隣にいるのは彼氏なんだろう。笑い合う2人はとてもよく似合っていた。フラれた時は、いつか見るはずのこの光景に胸が痛むんだろうなと思っていたけど、案外平気なことに自分でも驚く。それに椎名の横顔は幸せそうで、俺が悪あがきをしなかったのは正しかったんだと思ったら、ストンと肩の荷が下りたような気さえした。 「何見とるんじゃ?」 自分でも変だと思うけれど微笑ましい気持ちで椎名たちを見ていると、背後から仁王が覗き込んできた。どうやら黒板も消し終わったらしい。仁王は俺が見ていたのが椎名だと気付くと、僅かに眉を寄せる。それから低い声で、「忘れられないんか」と聞いてきた。 例えばもし、仁王の言うとおり俺が椎名とのことを忘れられてないんだとしたら、こんな風に微笑ましい気持ちには絶対にならないだろう。可愛いと思うのは今でも変わらない。けれどもう、それだけだ。前のように胸が早鐘を打つこともなければ、好きだと思うこともない。 ふるふると首を横に振って、笑う。仁王は不思議そうに俺を見つめた。 「大丈夫。俺はもう、椎名を好きじゃないよ」 「…ならええんじゃが」 「仁王の目から見て、俺は引き摺ってるように見えたか?」 見えなかったはずだ。ここのところ仁王と一緒にいることが楽しくて、椎名のことを思い出す日さえなかったのだから。 仁王は少し思案する素振りを見せて、ない、ときっぱりと言い切った。ある、なんて言われたら少し凹んでいただろうから、否定してもらえて安堵する。 「だろ?だからもう、俺のことは心配しなくていい。俺を一番に考えてくれなくてもいいから」 遠まわしかもしれないけど、それは俺なりの応援のつもりだった。 告白を断る時、好きな人がいるからという理由ではなく、今は俺が一番だという言い方をしたらしい仁王。だから、もう俺を一番に思ってくれなくてもいい。仁王は好きな人と幸せになってくれればいい。そう思ってのことで、仁王にもそれは伝わったはずだ。 それなのに仁王は驚いたかのように目を見開いて、しばらくして俯いたかと思うと、深く息を吐く音が聞こえた。それから上げた顔には、何故か自嘲気味な笑みが浮かんでいた。 「今はが一番大事。その言葉を、お前さんはどんな風に取ったんじゃ?」 「…俺を心配して、そう言ったんじゃないのか?」 「心配はしとったが。それだけで、一番大事、なんて言い方はせんよ」 言われてみれば、そうなのかもしれない。全然気にも留めてなかったけれど、確かにその言い方を同性の友達にするのはいささかおかしい。…じゃあ、どういう意味なんだろう。 「そのままの意味じゃ」 声に出してはいなかったはずなのに、仁王は俺の心を読んだかのような絶妙なタイミングでそう口にした。そのことに驚いて、次に言葉の意味を考えて首を傾げる。 「…俺が仁王の一番?」 そう呟いて、バカじゃないのかと呆れた。こんなの繰り返しただけで、そのままの意味も何もない。だけど仁王はそれには触れず、切実に次の言葉を紡いだ。 「何の一番か、分かるか?」 そう言う仁王の目は優しげに細められていて、何となく…本当に何となくだけれど、仁王の言いたいことが分かってしまった。俺だって鈍いわけじゃない。こんな風に気持ちを全面に押し出されたら、さすがに気付く。 この間みたいに、かぁっと体中が熱を持つ。絶対に顔だって赤くなっているはず。それに気付いたのか、仁王は更に笑みを深くした。 「が好きなんじゃ」 「っ…」 どうして告白している仁王は飄々としていて、告白されている俺がこんなにテンパっているんだろう。普通は逆じゃないんだろうか。だけど、仁王がテンパっているところなんて想像つかなかった。 今まで考えたことがなかっただけに、頭の中は困惑や驚きが入り混じってぐちゃぐちゃだった。その中でも一番大きいのが嬉しいという感情で、余計戸惑う。だけど、何だかそれが一番しっくり来るような気がした。彼女に自分の居場所を奪われると思っていたくらいなのだから、俺はそれでいいのかもしれない。 「…本当は、が俺を好きになってくれるまで待っとこうと思ったんじゃけど」 「え、」 「言ったろ。俺にだって、我慢できん時くらいあるって」 それはこの間、意味が分からなくても問い返せなかった言葉。仁王がそう言った理由と、俺にあんな風に触れた理由が今は瞬時に分かってしまった。 仁王は本当に俺が好きなんだ。そう思ったらダメだった。腰が抜けて、その場にへたり込む。 「?」 「あ、あはは…ごめん、なんか腰抜けた…」 苦笑いを浮かべながら見上げると、仁王はどこか焦ったような表情を浮かべていた。俺と目が合って、困ったように笑うその姿を見ていたら、自然と好きだな、という感情が浮かんできた。 …ああ、だから、だ。だからこの間から、仁王に彼女ができたら俺の居場所を奪われる、とか、彼女ができるのは嫌だ、なんて思ったんだ。そう言えばばたばたしてしまったせいで忘れていたけど、まるで俺が仁王のことを好きみたいだって思ったこともあったっけ。 泣いているところを見られたあの日から、俺は仁王なしじゃいられない。もしかしたら、それは仁王の策略だったんだろうか。ふとそんな風に思ったけれど、策略だろうとそうでなかろうと、今更どうでもいいことだった。だって俺は仁王に落ちた。 認めてしまうと触れたくなった。椎名との時は気持ちが通じたことだけで満足だったし、嫌われたくないという思いもあって、ほとんど何にもできなかったけれど。そんな二の舞はもう嫌だ。仁王に、触れたい。 手を伸ばして、仁王の手に指を絡める。その時の、仁王の反応ったらない。目を見開いて、固まって、全然いつもの仁王じゃなかった。だけど俺はそういう仁王も見たかったから、嬉しく思う。 「…傍におっても、ええんか?」 それは俺と仁王が、近しくなったきっかけ。俺が忘れられなかったように、仁王も忘れられなかったんだと知った。掠れた声で紡がれた言葉にその時のことを思い出して、ふっと微笑む。 「…仁王さえ良ければ」 あの時はこれで終わったけれど、今は後に続く言葉がある。 「ずっと傍にいてほしい。俺も仁王が好きだから」 繋いだ手に力を込めると、仁王は空いた手で自分の髪をくしゃくしゃに撫ぜ、それから吐息を漏らすように笑んだ。はじめて見る表情に呆けている間に、手を引かれて抱き締められる。 もともと俺は地面に座り込んでいて、仁王はその前にしゃがみ込んでいるという距離だった。だからそのまま抱き締められると、俺の顔が仁王の胸元にぶつかることになる。そのせいで、直に仁王の心臓の音が耳に届いた。普段飄々としている仁王からは考えられないほど早鐘を打つ、その鼓動に……どうしてだろう、泣きたくなった。 椎名と付き合っている時には感じなかった、好かれているという実感。仁王といるとそれが湧いてきて、堪らなく幸せだと思う。俺は愛されることに慣れてない。だから、幸せ過ぎて泣きそうなんだ。 きっと俺は、仁王に別れを切り出されても、椎名の時のように物分かりよく頷くことなんてできないんだろう。みっともないくらいに取り乱して、別れたくない、と喚くのかも。それでもよかった。みっともなくても情けなくても、俺は差し出されたこの手のひらと優しい笑顔を手放したくない。 それを伝えると、仁王は抱き締める力を強くして、拗ねたような口調でこう言った。 「その前に、俺がを手放すわけがなかろ」 フラれて泣いたあの日には、こんな風に愛されて、幸せで泣く日が来るなんて思わなかった。だけどあの日と違うのは、ぼろぼろ零れて止まらない涙を、仁王が拭ってくれること。 俺と仁王の関係は、いつも涙から始まる。
*フロムクライ
( 2008/09/09 ) |