「…甘やかしてよ」 甘い声が耳元で囁き、武骨な手のひらが頬を撫でる。ぞくりと背筋を走る感覚に泣きたいような心地になって、そんな自分を落ち着かせるために深く息を吐いた。 錫也は酷く落ち込んでいる。それで誰かに甘えたい気分になった時、一番近くにいたのが俺だっただけ。だからこの行為に、深い意味なんてない。 「…どうすればいい?」 努めて落ち着いた声で問い掛ける。それでも、吐息が震えた。耳の奥で、どくどくと心臓の音がする。 錫也は一瞬考えるような素振りを見せた後、徐に手を伸ばして、俺の手に触れた。びくりと体を揺らす俺に笑って、指先を絡めてくる。そのもどかしい動きに、どうしていいかわからない。 「っ、錫也」 「…手を握って、抱き締めてくれる?」 「え…」 下から覗き込んでくる目が、いつもより余裕がないように見えた。その間もずっと指を弄られているせいで、俺の方がよっぽど余裕なんてないと思う。…でも、そんな錫也を見たら、自然と手が伸びた。 机に寄り掛かるように座る錫也の頭を、掻き抱くように抱き締める。右手は手を繋いでいるから、左手だけでぎゅっと。 「…、…」 「な、なに…?」 「心臓、すごい音してる」 言われて気が付いた。この体勢だと俺の胸辺りに錫也の頭があるから、緊張がもろに伝わってしまうのだということに。 恥ずかしさの余り反射的に離れかけた体を、強く引き寄せられる。 「駄目だよ、離れちゃ」 「〜〜…っ」 「ほら、俺のこと抱き締めて?」 手持ち無沙汰になっていた左手を掴まれて、錫也の肩の上に乗せられる。焦って錫也を見ると、ん?と向けられた笑顔。その笑顔に、不思議と強張っていた体から力が抜けた。バカみたいに緊張して心臓ばくばくいっていることにも気付かれてしまったんだから、もう何も気にする必要なんてないんだよな。 今度は自然に、錫也のことを抱き締められたような気がする。さっきは気付かなかったことに気付くくらいには、余裕があった。 錫也の髪はとても柔らかかった。触り心地が良くて、ついつい撫でてしまう。 「…いいな、それ。甘やかされてる感じがする」 胸元に顔を摺り寄せて甘えるような仕草をされると、また胸が高鳴った。それと同時に、見たことのない錫也の姿に眉根を寄せる。 本当は、訊かないでおこうと思った。放課後、皆が帰って二人きりになった教室で、錫也が理由も言わずに甘やかしてとだけ言ってきた瞬間に、そう思ったはずだった。だけど、こんな…こんな錫也を見て何も訊かないでいられるほど、俺は人間が出来ていない。 「……お前、何があったの?」 そう問い掛けた時には、また最初のように緊張が復活していた。からからになった喉からは掠れた声しか出なくて、いつの間にか恋人繋ぎをなっていた右手がぴくりと揺れる。反応したのはもちろん俺じゃなくて錫也。それがやっぱり何かあったんだな、と俺に思わせる。 「何で?」 「…いつもの錫也なら、甘やかしてもらうんじゃなくて、甘やかしたいタイプだろ」 「……俺にだって、甘えたい時はあるよ」 …それが滅多にないから、何があったのかを聞いているんだと分からないんだろうか。きっと錫也のことだから、分かっていて尚、話してくれないんだろうけれど。 きゅう、と胸が締めつけられるように痛む。悲しいというよりは、寂しい。俺には話せないことで錫也がこんなに参ってしまっていることが、何故だかとても切なかった。 聞き出すのを諦めてまたさらりと髪を梳くと、自分の指先が目に入った。骨張った、男の手。甘やかしてもらうために手を繋ぐなら、…抱き締めてもらうの、なら。女の子の方が、良かっただろうに。 「…柔らかくなくてごめん」 「?どういう意味?」 「や…手を握ったり抱き締めてもらうなら、柔らかい女の子の方が良かっただろ」 「…俺はがいいんだよ」 え?と思って、錫也の顔を見ようと少しだけ体を引いた瞬間 「んぅ、…っ!?」 キスされているのだと気付いてまた体が強張った。それを解すように背中を撫でられて、混乱がピークに達する。 だって、何でこうなっているのかわからない。それなのに錫也の手のひらはやけに優しくて、この腕の中にいるのなら、そんなことはどうでもいいかと思ってしまう。どうでもいいはずなんてないのに。 それでも抗えない理由はひとつしかない。頬に触れられるだけで泣きたくなって、落ち込む訳を知りたいと思う理由。甘えられて嬉しいと思うのに、俺は錫也のことを何も知らないんだと思って寂しくなる理由。……そんなの、俺が錫也のことを好きだからに決まってる。 「…抵抗しないんだ?」 ようやく解放された頃には、すっかり力が抜けてしまって。錫也にもたれ掛かって息を整える俺の背中をあやすように撫でながら、そう問い掛けてくる錫也の声はやっぱり優しかった。 正面から向き直って、じっと錫也を見つめる。俺の目に映るその瞳に、どこか自嘲的な色が浮かんでいるのはどうしてだろう。 「…しない。俺は錫也が好きだから」 言葉は自然に口をついた。錫也は驚いたように目を見張る。 「ずっと、好きだったんだ」 抱き続けてきたこの想いを、伝えられる日が来るなんて思わなかった。錫也のこの手に、頬に、触れたいと思っても、夜久や哉太に向ける笑顔を俺にも向けて欲しいと、どんなに深く思ったとしても。こんなことがなければきっと、俺は卒業まで必死に押し隠していたと思う。 だけど、実際に触れてしまったらだめだった。強い力で押し込めてきた分、その反動で簡単に想いが溢れて、零れ出した。 俺の言葉を聞いて固まっていた錫也は、やがてゆるゆると顔の筋肉を緩めて。…俺が切望していた笑顔を、浮かべた。 「参ったな…。あんなこと言うから、は俺のことなんて好きじゃないんだと思ってたのに」 「…え、」 「俺もが好きだよ。…順番が逆になって、ごめんな」 すき。その言葉を錫也の口から、錫也の柔らかい声で言われると胸が震えた。また泣きそうになって、だけどそれより先に頬が緩む。 どちらからともなくキスをする。重ねるだけの軽いキス。だけど気持ちが通じ合った後だからなのか、さっきよりもずっと甘いような気がした。 切なくも、甘く。
( 2010/01/06 )
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